鈴木了二氏に思う。ーー官能性、それともイメージについて

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2013年3月13日

  • @biopoltcartes氏は時刻:2013年03月13日21時45分の周辺で下記の呟きを行った。
初めて文字を見る人 @koaustanzen

官能性は客観性、主観性のいずれにも属していない。[…]官能性はリアリティの指標である。[…]観念にも物にもあるテクスチュアルな質、つまり蝕知的な感覚と出会うことが必要なのだ。(続)

2013-03-13 21:45:48
初めて文字を見る人 @koaustanzen

[…]というのも、官能性は接触の感覚、蝕知的なものに関わっており、[…]私たちにとってのリアリティを最終的に正当化するものだからである。(マーク・ロスコ、鈴木了二から再引用)

2013-03-13 21:46:10
  • 鈴木了二氏はその著書「建築映画 マテリアル・サスペンス」の中で以下の記述を行っている。そう私は判断した。
たかお @moring_77

テクスチュアルと観念,モノとの間の相互作用として存在する触知的な次元。ただし、テクスチュアルという属性は後ろ二者の量的関係の中で見出されるもので、それ自体では独立し得ない。主-客という質的差異は、その実、官能性という質量的概念に規定されている。

2013-03-13 22:09:21
  • 鈴木了二氏は僕の友人であった。
初めて文字を見る人 @koaustanzen

…マテリアル・サスペンスのざらざらした感触は、複数の欠落感が擦れ合うざわめきだ。(鈴木了二)

2013-03-13 22:21:18
初めて文字を見る人 @koaustanzen

神話性とマテリアル・サスペンス、このふたつを繋ぐものが主観/客観の外部にロスコの位置づけた官能性ではなかろうか。…官能性は現代のリアリティの磁気を帯びていることになるだろ。…したがって蝕知性とは、突き詰めれば身体的なレベルで反応するひりひりするような政治性だ。(鈴木了二)

2013-03-13 22:24:56
  • 官能性は主-客の領分を無へと回帰してしまう双方向性であり、言い換えると、具体と抽象が幾つもの無限の中で、弧を描いたり、球を転がってみたりして、複数の時間軸を定められた端点において接続する行為である。このことはつまり、私が横長の長方形の輪郭線によって画定される形態を指標として、四つの角度を認識することによって、水平方向に拡散する同一平面上を歩行することに他ならず、それゆえ、私という自我が意識レベルにおいて、中心、すなわち、二本の対角線の交点を通過する垂直軸の切断を行使することになる。というのも、私はアクチュアルな実践を垂直平面で行うことが殆ど不可能だからである。私の顔面を空高く飛翔する静物としての相互交流性。あるいは、主-客の次元を逸脱することに成功した競争のないポートフォリオ。行われるべきは、官能性を彫刻することであり、または、図像することなのであり、惜しむらくはそのことに私本人が関わることは起こりえない痛ましき事態なのである。いずれ何処かで仰け反ることでしょうが。したがって、私の本文とするところは、こうである。帰結としての了解事項を縮減することなく増幅させること。偶像崇拝における公序良俗の論述。極めて短い時間のなかでの多用性の展開と、同時に、未分化な状態における全体としての理論的把握。つまりは、一般としての多様性。こうした事柄をあちこちの方角、場所のなかで決定付ける枠組みの形成と構成要件の埋立、及び、聴衆の感激である。