沖縄戦における県知事たち

島の人Part2さんの連続ツイートをまとめました。参考文献は末尾にあります。
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島の人Part2 @simasyodes

複数の証言で島田はどうやら‘物書き’志望だったようである。脱線したが島田は着任直後から前任の泉知事時代から疎開に苦心していた荒井退造警察部長と県民の疎開に取り組んだ。

2013-03-26 21:39:04
島の人Part2 @simasyodes

島田と荒井の努力で多くの犠牲はあったが内地や台湾へ約7万3千人、県外移送が間に合わなかった県民は本島北部へ約15万人が疎開させ約20万の人命が二人の尽力で救われた。

2013-03-26 21:53:07
島の人Part2 @simasyodes

島田は常に明るく周りを気遣い県職員の評判はよかった。酒が入ると「てるてる坊主」を唄って場を和ませた。

2013-03-26 21:54:58
島の人Part2 @simasyodes

島田は積極的に県内を視察し、県民の中へ入っていった。読谷の集落を訪れた際に「知事が来た」と騒ぎになり気を使った村人が酒を用意すると村人と車座になり一緒に杯を傾けた。

2013-03-26 22:04:37
島の人Part2 @simasyodes

島田が疎開の次に取り組んだのは食糧確保だった。県民に「食糧増産」を推奨しつつ島田は昭和20年2月に自ら危険を冒して台湾に渡り3千トンの米を確保した。一時期この米は沖縄まで輸送されなかったとされたが近年の証言で届いたことが確認されている。

2013-03-26 22:11:26
島の人Part2 @simasyodes

すでに県庁は空襲で焼けており島田は壕内で執務を執っていた。昭和20年4月1日遂に米軍が沖縄に上陸してきた。

2013-03-26 22:20:57
島の人Part2 @simasyodes

島田は既に陸軍第32軍牛島満中将、海軍沖縄根拠地隊太田実少将と連携を取り県民の避難を行う。特に太田実少将とは肝胆相照らす仲だったと言われる。

2013-03-26 22:29:15
島の人Part2 @simasyodes

4月27日 各地で日米両軍の戦闘が繰り広げられてる中で県庁壕で県内南部18市町村長4警察署長が集まる。緊急合同会議が開かれた。

2013-03-26 22:32:20
島の人Part2 @simasyodes

島田はここでも県民の食糧確保を訴え、他人の田畑から作物を取って(盗んで)もよいと伝えた。沖縄では後にこれを「戦果」と呼んで飢え凌いだ者は多かった

2013-03-26 22:36:55
島の人Part2 @simasyodes

会議終わり 雑談になると島田は持ち前の明るさを発揮し、「戦争が終わったら三日二晩飲み明かす」と‘豪語’して周りを笑わせている。

2013-03-26 22:39:52
島の人Part2 @simasyodes

しかし戦火は日に日に激しさを増し、県職員も殉職者が多数発生していた。5月軍は首里を放棄し、南部への撤退を行う。南部は避難民で溢れており島田は撤退に反対したという

2013-03-26 22:51:15
島の人Part2 @simasyodes

島田は内務省へ5月24日に電文を打電 来るべき本土決戦に対して沖縄の情報を参考にして欲しいとの考えだった。【敵一度本土二上陸スルコトアランカ 日本国民ノ受ケル苦難ハ 沖縄県民ノソレニ比シテ何十倍スルカヲ知ラズ 深憂二堪ヘズ】

2013-03-26 22:59:38
島の人Part2 @simasyodes

また荒井は内務省警保局長宛にこう打電している。【六〇万県民只暗黒ナル壕内二生ク 此ノ決戦二破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ 此ノ部民ト相倶(あいとも)二敢闘ス】

2013-03-26 23:04:25
島の人Part2 @simasyodes

軍と供に南部へ後退した島田は移動中の道々で戦場をさ迷う県民を目にして明るかった表情は暗くなったという

2013-03-26 23:07:23
島の人Part2 @simasyodes

島田ら県庁職員は6月に糸満市の轟壕まで移動していた。 荒井はアメーバ赤痢を患い体調を崩していたが「敵に斬り込もう」と提案するが島田は「荒井君、我々は人事を尽くしたのだから、後に天命を待とうじゃないか。私は今日を期して、警察部を含む沖縄県庁を解散する」昭和20年6月8日の夜だった。

2013-03-26 23:21:55
島の人Part2 @simasyodes

沖縄県庁が解散した前日、沖縄海軍根拠地隊の太田実少将はあの有名な【沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ】の電文を打電して玉砕する

2013-03-26 23:25:32
島の人Part2 @simasyodes

今更この電文については語るべきことはないがこの電文の冒頭には「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」という言葉がある。島田や荒井ら県幹部の苦境を思っての太田実の配慮だったのかもしれない。

2013-03-26 23:28:23
島の人Part2 @simasyodes

6月23日牛島満中将は自決し、日本軍の組織的戦闘は終了した。島田は19日に摩文仁の司令部壕を訪れ別れを告げている。

2013-03-26 23:33:06
島の人Part2 @simasyodes

島田は5月頃から自嘲気味に「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これは、きっと末代までの語り草になると思うよ。」と周りに漏らしていたという

2013-03-26 23:35:34
島の人Part2 @simasyodes

「軍人ではなく文官なので死ぬ必要はない」と周りが止めても島田は覚悟を決めていたのか聞かなかったと伝わっている。

2013-03-26 23:38:02
島の人Part2 @simasyodes

島田は6月26日までの生存は確認されているがそれ以降はわかっておらずここで消息は途絶える。 島田叡 享年43 沖縄県は県庁職員458名 警察職員106名が殉職した。また荒井退造もこの日から消息を絶っている。 享年44

2013-03-26 23:44:44
島の人Part2 @simasyodes

陸軍兵長として沖縄戦を戦った山本初雄氏が戦後に島田の最期を証言した。山本は脚を負傷して動けなくなった島田から黒砂糖を分けてもらい後日お礼に伺うと拳銃自殺したであろう島田の遺体を目撃したという

2013-03-26 23:50:27
島の人Part2 @simasyodes

戦後、島田の偉業は伝わり1951年6月25日に糸満市摩文仁に島守の搭として建立され毎年6月23日に慰霊祭が営まれている。終わり

2013-03-26 23:56:07
島の人Part2 @simasyodes

参考文献 田村洋三 沖縄の島守―内務官僚かく戦えり 野里洋 汚名 浜松昭 沖縄戦こぼれ話 戦火の中の沖縄刑務所 渡嘉敷唯正

2013-03-27 00:00:07