沖縄戦2

沖縄戦で、米軍の上陸前後から「終結」まで1日ごとに何があったのかを、さまざまな資料からふりかえっています。2014年に続き、2度目。
社会問題
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谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月を迎えるこの季節になると「ああ、そうだ」と思い出すのが沖縄戦。米軍の上陸前後から「終結」まで1日ごとに何があったのかを、過去、まとめてきました。togetter.com/li/841079 それからもう1年。出来る範囲で、新しいバージョンに挑戦してみます。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】3月29日@首里 鉄血勤皇隊となった沖縄一中の約220人に、新品の軍服や軍靴などが支給された。当時3年生だった石川栄喜さんは「嬉しさのあまり、用もないのに池端、当蔵通りを歩き回った。それだけでは物足りなくて、那覇の焼け跡まで足をのばした」。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】3月30日@越来 上陸にそなえて米軍は猛烈な艦砲射撃を加えていた。移民先のペルーから引き揚げてきた比嘉カマドさんはこの日、避難を決意。食料探しに行った家の裏手で悲惨な光景にぶつかった。「直撃弾に当ったのでしょう(略)誰かの足が木の枝にぶらさがっていました」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】3月31日@豊見城 船舶工兵の連隊本部と中隊を結ぶ電話線が米軍の砲撃で切れた。野村正起・一等兵は夜、補修を命ぜられて高台へのぼった。北西の方角を見渡す。「はるかな海上には、こうこうと電灯に輝くアメリカ艦がひしめいて、さながら大都市の灯をのぞむようであった」。上陸前夜。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月1日@首里 続々と押し寄せてくる米軍を、第32軍幹部は双眼鏡を手に観望していた。本土決戦を一日でも遅らせるための持久作戦。ほぼ無防備の海岸へ、そうとは知らずにありとあらゆる爆撃を加える米軍の姿に、八原博通高級参謀は「こんな痛快至極な眺めがあろうか」。微笑を浮かべた。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月2日@読谷 約140人が潜んでいたチビチリガマという壕に米兵が来た。観念した住民の手で集団自決が始まる。「お母さんの手で殺して」と懇願する娘。長男にまたがり包丁を振り下ろす母。「みんなどんどん死んでいく様子が真っ暗な中でもわかるのです」。約80人が亡くなった。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月3日@中城 米兵に銃口を向けられ、元教師だった喜納昌盛さんは死も覚悟しながら「ユー、アメリカ、ゼントルマン」と呼びかけた。すると別の米兵が「ああ、喜納先生!」。かつての教え子だった。地元の学校を出てハワイへ。そして開戦。奇跡的な出会いが多くの命を救った。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月4日@本島中部 占領地域を広げる米軍に問題が持ち上がった。次々と投降してくる民間人の取り扱いだ。この日までに保護した住民は6335人。ニューヨークタイムズはこう伝える。「沖縄人は、彼らを劣等民族として扱っていた日本人とはほとんど異質である」
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【沖縄戦】4月5日@読谷 米軍政府が開設され、慶良間・本島上陸時に引き続き、南西諸島を本土から分離し占領することが宣言された。いわゆるニミッツ布告である。「米国軍占領下の南西諸島及其近海居住民に吿ぐ(略)日本帝国政府の総ての行使権の行使を停止す」。ヤマト世からアメリカ世へ。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月6日@宜野湾 2週間近く壕で過ごした宮城真英さんが捕虜になった。外へ出てみれば、いたるところ米兵だらけ。ジープの音を聞いては首をはねる兵器だと目をつぶり、口笛の合図を聞けば銃殺かと観念した。「いま私の頭上に爆弾が落ちて米兵もろとも吹き飛ばしてくれるよう」に祈った。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月7日@坊之岬沖 沖縄特攻の命令を受けた戦艦大和が爆沈。昭和天皇は後にこう語る。「陸軍が決戦を延ばしているのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった(略)私は之が最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思った」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月8日@東京 午後5時。ラジオから久しぶりに軍艦マーチが流れた。大本営は、初の戦艦特攻で米空母など15隻を撃沈と発表。作家の海野十三は「敵艦船は遂に沖縄本島の周辺から逃げ出したとある(略)決戦の決をみるのも、もうわずかの後に迫った」と翌日の日記に書いた。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月9日@首里 第32軍司令部が命令を発した。「爾今、軍人軍属を問わず、標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分す」。ウー、ワカヤビタン……ヤシガ ヌーンチガヤー?(はい、わかりました……でもなぜ?)機密漏洩に疑心暗鬼になった結果だった。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月10日@豊見城 持久戦か攻勢か。八原博通作戦主任と長勇参謀長は反目していた。驚くべきことに、その雰囲気は前線にも伝わっていた。「司令部内の対立が伝えられてくる」と野村正起一等兵は日記に残す。「この対蹠的なコンビで第32軍は果たしてどのように戦っていくのであろう」
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【沖縄戦】4月11日@首里 嘉数高台では激しい争奪戦が続き、本部半島では米軍が国頭支隊の主陣地に猛攻を加えていた。戦況有利ならず。だが牛島満司令官は泰然としていた、と神直道参謀は日誌に記す。「将軍は西郷南洲の如き人、悠々泰然、水の動くが如く天地の理法に伴って事を処せらる」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月12日@首里 第32軍司令部が,こんな命令を発した。「洗濯、特に白色を壕入口付近の小屋、木の枝等に乾すものあり。敵より発見され易きを以て厳に注意を要す」。鉄の暴風と呼ばれる砲撃によって、泥とがれきと黒こげの幹だけになった後の首里を思えば、どこかまだ牧歌的だった。
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【沖縄戦】4月13日@中部? F・ルーズベルト大統領死去の報が、第1海兵師団のユージン・スレッジ氏のもとに届いた。後継は、副大統領だったトルーマン。「戦争にどう始末をつけるのか(略)たとえ一日でも必要以上に戦いを長引かせるような人間は、ホワイトハウスには絶対いてほしくなかった」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月14日@本部 国頭支隊が米兵2人を捕虜にした。部隊名、米軍の勢力、総攻撃の日時……。米兵は淡々と質問に答え、傷の手当てを求めた。日本軍は「捕虜になったことを少しも恥と思わない毅然たる態度に驚き、あわて、憤激した」。相談のすえ、宇土武彦隊長は2人を処刑するよう命じた。
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【沖縄戦】4月15日@伊江島 翌日の上陸にそなえ、米軍は大小50隻の艦船で島を取り囲んだ。城山を中心に降り注ぐ砲弾は視界をさえぎるほどだったと玉城盛興さんは言う。「五月の長雨でもこんなには降るまい、と思うほどの量だった。空からの爆撃もあり、身じろぎもできなかった」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月16日@那覇 トランク2つを下げて1月末に赴任したばかりの島田叡県知事が、海軍を通じて内務相に打電した。「4月13日迄の被害は家屋破壊12307 首里市及び沿岸部落の建物は殆ど壊滅(略)6月上旬以降は困窮 一部飢餓に瀕せんことを憂慮す」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月17日@東京 「沖縄の戦争は、ほとんど絶望であるのは何人にも明瞭だが、新聞はまだ『神機』をいっている」と評論家の清沢洌は日記に書く。「国民は、愚かな田舎人でもこれを信じまい。誰も信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月18日@伊江島 ピューリッツァー賞も受けたジャーナリストのアーニー・パイルが日本軍の銃撃を受けて死亡した。海の向こうのヨーロッパ戦線の勝利にそなえた予定稿だったのだろうか。ポケットにはコラムの下書きが入っていた。「ついに終わった。世界の片側は破滅の道を歩んでいる」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月19日@嘉数 機関銃隊の松川正義さんが立哨にあたった。もう一人の当番である古参兵は、ひさしのある壕入り口に。突然、迫撃砲の攻撃を浴びた。古参兵は即死。「その顔がまるで小学生のように小さいんです(略)後頭部は骨も何かかもふっとんでいて、顔の皮が縮んでいたんですね」
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月20日@浦添 米軍に囲まれた友軍を救うべし。山本義中小隊長らが伊祖高地への夜襲を命じられた。その際、戦死傷者の収容は禁ずるとも。「いやはや、万に一つも、生きて帰るなどとは考えられない」。ふるさとの母、妹のおかっぱ頭、子供のころ遊んだ山や川。次々と脳裏に浮かんだ。
谷津憲郎 @yatsu_n
【沖縄戦】4月21日@首里 砲弾の下、鉄血勤皇隊の大田昌秀氏が壕内でうつらうつらしていると「誰かやられたぞ」と叫び声があがった。運ばれてきたのは、同じ勤皇隊の久場良雄さん。「右足は大腿部のつけ根から叩き切られ(略)ねじれてぴくぴく動いている」。勤皇師範隊の最初の犠牲者だった。
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