キリスト者の「二つの性質」と「三つの救いの段階」
- wancupmaster
- 3312
- 0
- 0
- 1
なぜなら、イエスはメシヤとしての最初のしるしとして、カナの婚礼で120リットルの水がめ六つ分もワインに変えて、招待客に振舞われたからです。また最後の晩餐では、ご自身もワインを4杯も飲まれました。普段もワインを飲まれていたので、パリサイ人たちからは誇張して「大酒飲み」と言われました
2013-04-04 08:10:54では、聖書はなんと言っているでしょう?エペソ5:18ーまた、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。 飲酒そのものを禁じているのではなく、「酒に酔うこと」を禁じているのです。
2013-04-04 08:17:541テモテ5:23ーこれからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。 ぶどう酒は医薬品としても用いられていました。
2013-04-04 08:21:25黙示録6:6ー「小麦1枡は1デナリ。大麦3枡も1デナリ。オリーブとぶどう酒に害を与えてはいけない」と、患難時代の裁きの時でさえも、医薬品であるぶどう酒は神の守りの中に置かれています。
2013-04-04 08:24:28これらのことから分かることは、飲酒そのものが「罪」なのではなく、「酒に酔うこと」が罪だということです。 喫煙に関しては、聖書が書かれた時代には「タバコ」というものは、まだ存在していなかったと思われます。なぜなら一言もふれられていないからです。
2013-04-04 08:27:141コリント10:23〜24ーすべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。cf 1コリ8:5~13
2013-04-04 08:39:31飲酒、喫煙をする、しないの判断は個人の自由意志にまかされています。その判断基準として「有益なこと、徳を高めること、他者の益となること」そしてイザヤ43:7&21にあるように「神の栄光を現すこと」はすべきであり、そうならないものはしない方が良いということです。
2013-04-04 08:43:281コリント10:31ーこういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
2013-04-04 08:53:46では「主日礼拝」に関してはどうでしょう? もし「主日礼拝を“守らねばならない”」とするならば、それは律法主義に陥る危険性があります。中には主日礼拝を守るために、信仰を持ってから転職する人もいるでしょう。しかし、すべての人がそう出来るわけではありません。
2013-04-04 09:19:47ローマ14:5〜6aーある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。
2013-04-04 09:26:16この件に関しても、各自の自由意志にまかされています。判断基準としては、ローマ14:23bー信仰から出ていないことは、みな罪です。
2013-04-04 09:29:53信仰により飲む飲まない、食べる、食べない、吸う、吸わない、主日を守る、守らない、何かをする、しないを決めるべきであって、律法によるのではありません。ましてやそれを「裁きの手段」としてはいけないのです。
2013-04-04 09:32:27「いけないことなのかな?これは罪なのかな?」と感じるのであれば、神さまがあなたにして欲しくないことと受け止め、止めた方が心に平安が来るでしょう。逆にそのことで神の栄光を現わしているという確信があるのなら、無理に止めなくてもよいのです。一人一人が神さまとの関係の中で決めるべきです。
2013-04-04 09:36:31