山本七平botまとめ/法治を排する徳治主義/~「孟子主義」色が濃い民主主義もどきの日本~

山本七平著『1990年代の日本』/Ⅱ日本人の履歴書ー中国からの学習と勤労思想の確立ー/人民絶対と聖人待望「天意=人心論」/78頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【聖人待望】さらに孟子は次のようにも言っている。 「暴君の夏の桀王、殷の紂王が天下を失ったのは、人民を失ったからである。 人民を失ったとは民心を失ったということである。」<『1990年代の日本』

2013-03-25 07:28:03
山本七平bot @yamamoto7hei

②「天下を手に入れるには方法がある。 一口でいえば人民を得ること。人民を得るに方法がある。 すなわち民心を得ること。 …現在でも、もし好んで仁政を行う君主がいれば、諸侯は皆その方へ人民を追い立てるから、いくら天下の王(天子)になるまいとしても、天子になってしまうだろう……」

2013-03-25 07:57:47
山本七平bot @yamamoto7hei

③これも民心の帰する者が天子になる、いわば天に任命された者となることだから、天意が人心に現われていることになり、民の意向は天の意志として絶対化される。 ではこれは民主主義なのか。 そうではない。 天はマージャンのルールだけを支配しているのでなく、人間の内心をも支配している。

2013-03-25 08:28:13
山本七平bot @yamamoto7hei

④ということは、民心の帰するところの者は、人間の精神をも支配し、その規範をも定め得るということである。 法治主義・徳治主義という言葉がある。 では「徳」とはいかなる内容をもつものなのか。

2013-03-25 08:57:50
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤「徳は、愛するを仁といい、宜(よろ)しきを義といい、理あるを礼といい、通ずるを智といい、守るを信という…」と朱子は言った。 いわば仁義礼智信であり、これらの徳目は決して単なる「法(ルール)」とはいえない。 そして天子はこれを具備しているが故に天子であり「聖人」なのである。

2013-03-25 09:28:12
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥中国人は皇帝を聖人と呼ぶが、日本でも戦前は、聖天子などという言い方があった。 その天子が、天の秩序を地上に再現すべく一切を支配しているわけである。 そうなると「お前の、その精神がよろしくない」といって人を処罰できることになる。

2013-03-25 09:57:44
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦そこには 「法は人間の行為のみを規制するルール、すなわち外的規範であって、人間の内心の問題には絶対タッチしてはならない」 といった原則は、ありようがない。 いわば、内的規範と外的規範とは一体化している。

2013-03-25 10:28:13
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧従って前に述べたように「礼は外面的なルール」だけでなく、これによって「仁」に至る内面的なルールでもある。 この思想はさまざまな形で日本に浸透したから「民主主義もどき」となって、さまざまな面に現われる。

2013-03-25 10:57:54
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨そして最も進歩的・革新的なはずの人の言葉に、前記の孟子の言葉がそのままに現われてくるのである。 同時にこのことは、政治家に徳のある聖人を待望するという面にも現われている。 新聞の論調など見ると、聖人首相が出現しないと、イライラしているように見える。

2013-03-25 11:28:15
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩そしてこれは外国の政治家への評価にも現われる。 確かに、どう見てもレーガン大統領は聖人ではない。 そうなると政治的能力とは別の評価となるから日本では甚だ評価が低くて不思議ではない。

2013-03-25 11:57:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪この点で、最近に於て絶賛的評価を受けた外国の政治家といえば、それは毛沢東であり、その没時の新聞特集をいま読むと、日本には、絶対的徳治主義的皇帝への憧憬は今も消えていないと思わざるを得ない。

2013-03-25 12:28:18
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫駒田信二氏は、私との対談で、毛沢東の中に己れの理想を実行に移す儒家の伝統が見えると言われたが、日本でのあの賛美は「社会主義もどきの孟子主義」への賛美かも知れない。 もっとも貝塚茂樹氏は、文化大革命の中に神農主義的絶対的農本主義を見ておられる。

2013-03-25 12:57:54
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬いずれにせよそれらは、中国の伝統の色濃いものであろう。 それが当然なのである。 いわば人は、毛沢東の定めた新しい徳目に基づいてその精神から革(あらた)めねばならない。 いわば「精神革命」である。 そして全員が精神を革め、それによって社会が革まったら全く新しい社会ができる。

2013-03-25 13:28:22
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭これは、 マージャンのルールを四人が相談のうえでどのように変えようと、それによって何人も改宗を強制されるわけではない、 というのと全く別な状態である。

2013-03-25 13:57:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮いわば、洗脳といわれた強制改宗からまず始めて、それによって、各人のもつ思想・信条・教義・道徳律などの内的規範の一切を変えてしまって、その結果として外的規範も変わってくるようにする。 同時に社会の構造もそれに対応するように革(あらた)めるということであろう。

2013-03-25 14:28:24
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯こうなれば、「精神がよろしくない」といってその人間を逮捕し、裸のさらし者にして引きまわすという行為も当然に起るであろう。 その場合、「自分は法に違反する行為は何一つしていない」という抗弁はもとより成り立たない。 そしてそれらはすべて「人民の名によって」行われる。

2013-03-25 14:57:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰当時この言葉にひどく感激していた人の記述を読んだが、その論旨はまさに孟子なのである。 いわば 「民心の帰するところに毛沢東がいる。 従って彼が『人民の名によって』すべてを行うのは当然であって、これは今まで人類にない新しい真の民主主義である」と。

2013-03-25 15:28:14