「講義」というライブ形式の意義について

ヲノサトルさん @wonosatoru の連ツイ、僭越ながらトゥギャらせていただきました。すべての学生さん、必読です。
14
ヲノサトル @wonosatoru

昨日は多摩美の新学期初講義、そして夜はメヲコラソンのライヴと、演じる側・観る側の両面から体感して、やっぱりナマは良いなと(当たり前の事だが)再確認した。(続く)

2013-04-11 09:26:34
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)大学の講義もオンラインでという流れがあるのは承知しているが、やはりそれはナマとは別物にならざるをえないだろう。僕が講義でやってる事は、べらべらしゃべって映像や音楽を紹介していくだけであり、その気になれば「番組」としてコンテンツに編集する事は難しくない。では(続く)

2013-04-11 09:30:14
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)なぜこの時代に「講義」というライヴ形式でそれを行わなければならないかというと、ライヴであるがゆえの空間と時間の不便が「学び」を駆動するのに役立つからではないだろうか。(続く)

2013-04-11 09:37:43
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)自分で情報を取捨し、必要なデータだけを受け取りたいと考える人にとっては、ナマの講義などノイズが多すぎて無駄なのに見えるだろう。だが「学び」とは自分の持っていないデータを受け取る事ではない。そもそも自分に足りないのはこれとこれ、とわかるなら「学ぶ」必要などない。(続く)

2013-04-11 09:42:54
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)「学び」とは、未来のより良い自分に向けて、自分を作り変える作業だ。だが今の自分が考える「良い自分」は所詮「今の自分」レベルの想定にすぎない。 想定もできないような「未来の自分」になるには、想定外の何かが必要だ。 (続く)

2013-04-11 09:50:08
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)想定外の何かを「何だかわからないけど、これは大事な気がする」と無意識に受け取ることは誰しもあるはず。何年もたって「あ、あの時あれを知る事ができて良かったな」と思うかもしれない。思わないかもしれない。ただ、その種の「勘」は場数を踏むほどうまく働くようになっていく。(続く)

2013-04-11 09:59:38
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)いま必要なデータを自力で集める作業では、この「場数」を踏む事ができない。他の人々と一緒に講義を聞いていて、自分には面白くも何ともない話になぜ周囲は笑うのか訝しんだり、話の内容次第で場の空気が緊張感を帯びるのを肌で感じたりする経験こそが「勘」を鍛える。 (続く)

2013-04-11 10:06:07
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)昨日の講義の最後、フォルマント兄弟の「人工音声でピザの出前をとる」というパフォーマンスの記録映像に教室は大爆笑していた。だがそれは、そこまでにグレゴリオ聖歌から初音ミクまで様々な「声」に関する講義を、無駄話も含めて延々聞かされた事と無縁ではないだろう。(続く)

2013-04-11 10:10:38
ヲノサトル @wonosatoru

(承前)最後に、中国の古い話を。無駄を嫌う人に、ある人が言った。「貴方は、立つには足の裏の面積だけあれば十分だと思っている。だがその形だけ残して地面を全てくり抜いたら立っていられるか?つまり無用な部分こそが、必要なのだ」(終)

2013-04-11 10:14:10