藤原監督の【震災と「私的ドキュメンタリー」考】

東日本大震災と福島第一原発事故のドキュメンタリー映画について、「無人地帯」(予告編→http://www.youtube.com/watch?v=J4NLrlKKMVs)の藤原監督のつぶやきにいろいろ考えさせられたのでまとめました。 文中の見出しは、観客という立場のよたよたあひるがつけたものです。m(_ _)m
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toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

「21年目の不在」という題名自体、歴史観が欠如している。あたかも小川が死んで21年の歴史が「流れた」のではなく、21年その不在のまま日本のドキュメンタリー作家も批評家も、ただ停滞していただけであり、その異常さに皆が無自覚なままであるかのような、自体感覚の不在が、真の問題なのでは?

2013-04-15 05:19:42
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

本当は「小川紳介の不在」ではなく、「小川が死んだのとほぼ並行して、不在のまま歴史が止まった21年」なのかも知れない。小川の死後まもなくバブルがはじけ、21年間若い世代の作家たちは、「個」に向かう成長の停滞した、止まってしまったままの「私」を映画に出来ないものかと執心して来たのだ。

2013-04-15 05:22:34
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

日本の「私的ドキュメンタリー映画の時代」が本当に産み出した映画作家は、結局は在日コリアンのヤン・ヨンヒだけなのかも知れないし、その理由はあまりに分かり易い。在日であるヤンは、日本のマジョリティに曖昧に埋没する「私的」ではなく、世界と対峙する「個」を持つことで映画を作っていたのだ。

2013-04-15 05:25:39
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

拙速かつ大量に作られた「震災ドキュメンタリー」「3.11映画」は、この決して「個の成長と確立」に向かわず、小川の不在を歴史化することも出来なかった「曖昧な私のドキュメンタリー」の流行に最終的に限界をさらけ出し破綻したことを示す事象なのだと、断言することも出来るかも知れない。

2013-04-15 05:28:18
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

なんと言っても「私の体験」「私の感情」の表現に留まる「私的ドキュメンタリー」が被災地や被災者と向き合うことが本質的に不可能な理由が明確過ぎるのだ。「曖昧な私」しか持とうとしない作家たちに対し、被災者は自分のこれまでの人生を背負った「個」を確立しなければ、復興に向かえないのだ。

2013-04-15 05:30:36
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

つまり撮影の対象である被災者・被災地の持つ確固たる「個」が、マジョリティに曖昧に埋没すること、そこに「私」として承認されることにしか向かえない「私的ドキュメンタリー」の「私」たちを、人として完全に凌駕し圧倒してしまうことが理の当然なのである。これでは「私」の表現は成立しない。

2013-04-15 05:33:19
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

まして震災や原発事故をドキュメンタリーとして撮ろうとするなら、作家が対峙する世界はもっと巨大なのだ。大地震と津波という世界の摂理そのものの現れと、その自然と生きて来た農業・漁業の文化の圧倒的な歴史の豊かさ、さらに原発事故は近代という科学の時代の文明観、世界観そのものを揺さぶる。

2013-04-15 05:38:01
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

決して世界と対峙する「個」ではなく、「私」の体験と「私の感情」を観客に共感してもらうことでマジョリティに曖昧に承認され受容吸収されていくベクトルを持つ「私的ドキュメンタリー」では、現代日本人の存在の正当化そのものを揺さぶった3.11という事件には無力で、逃避先を探すしかないのだ。

2013-04-15 05:41:22
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

一方で一人一人の被災者は、天変地異や原発事故だけでなく、故郷が破壊されコミュニティがバラバラになって行くなか、しかも政府を始め「その他の日本」から見捨てられるなか、ほとんど瞬時に曖昧な日本の「私」から、確固たる「個」に成長しなければ、生き続けられないのだ。

2013-04-15 05:44:59
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

歴史や伝統や地縁の確固たる土台があったからこそ、被災地の人々は確固たる「個の」矜持を持ち、その振る舞いは(皮肉なことに日本以外の)世界の賞賛を集めた。その人たちの崇高さを、日本の「私的ドキュメンタリー」は(「私の会った被災者」に発展した例外を除き)理解する回路を持っていなかった。

2013-04-15 05:50:58
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

いや、「理解する回路がない」というより、「理解し作品にする意思」がアプリオリに欠如している、というべきなのかも知れない。「私の体験」「私の感情」に共感してもらうことで承認され、「私」の居場所を確保するのが「私的ドキュメンタリー」を作らせる動機であり、作品の向かう方向性なのだから。

2013-04-15 05:53:24
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

つまりは「都会から被災地に来た私」「それを都会で見る観客」というマジョリティより、その認識では「東北の過疎の田舎」でしかなかった被災地・被災者の方が素直に人として偉い、学ぶべき相手だ、というスタンスは、日本の「私的ドキュメンタリー」のほとんどの基本構造では、最初からあり得ない。

2013-04-15 05:56:05
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

(…というか、そんなこと本気で伝わるように表現したら、「東京から来た私」も「東京でその私に共感する観客」も、“傷ついて”しまうでしょう。「私たち」マジョリティの方が“偉かった”はずなんですから)

2013-04-15 05:58:23
toshi fujiwara/藤原敏史 @toshi_fujiwara

(いやでも、東日本大震災では、たいていの場合「被災者」の方が絶対に“偉い”よ、って素直に思ってるのが僕なわけですが。同じ状況に置かれたとき、あそこまでちゃんと振る舞う自信ないもん)。

2013-04-15 06:01:43