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@Kominebunzo 氏によるフランス革命軍の解説

たまたまタイムラインでお見かけして面白い内容でしたので纏めてみました。 まだまだ続いているので暫定版ということで。 リプ絡みで追記をされたいかたはぜひどうぞ。
コラム 歴史 ナポレオン フランス革命 近代史 世界史 フランス軍
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Bunzo @Kominebunzo
革命後仏軍の強さは市民軍としての愛国心、士気の高さにあったと言われるものの、兵士ではない市民を雇って使用していた野砲兵の馬匹牽引隊は戦闘の危険や悪路を嫌い任務拒否が頻発して軍の苦戦を招く。徴集兵ではない市民の愛国心は「この程度」で済んでいた。革命でも仏国民は正気だったということ。
Bunzo @Kominebunzo
仏軍は市民志願兵の集団からなる軍隊は無力で、徹底した徴兵制度による徴集兵の大軍こそが粘り強い継戦能力を生み出して決戦に次ぐ決戦を強いて他国を圧倒できると考えていた。これは革命の産物ではなく革命前の旧体制時代からGuibertが提唱していたもの。つまり実力があれば他国も真似られる。
Bunzo @Kominebunzo
フランス革命後の徴兵制は大規模なもので思想よりもその規模に大きな意義がある。これがナポレオン時代になる頃に富裕層は徴兵された子息に代人を雇えるようになり、程良く腐って行く。度重なる戦争で軍隊の消耗が続く中、命を金で買えるようになるのは世の中が正気である証拠。
Bunzo @Kominebunzo
1800年度~1812年度の徴兵対象者は434万人、実際に徴兵されたのは143万7千人。現役徴集率は30%台に留まる。これなら即時国が傾くということもない。そしてナポレオン時代後期の脱走率は10%程度はある。仏軍が兵の素質の点で何か特別な軍隊であった訳でもないことがわかる数字。
Bunzo @Kominebunzo
ナポレオン時代の将官達はどんな人々かと言えば意外にも大半が1800年迄に任官していて総勢170人。その後に皇帝が登用した将官は37人に過ぎない。仏大陸軍もポスト不足で昇進スピードが急落している。誰もが社長になれる建前だけれど現実には課長になるのも難しい点で現代の企業と変わらない。
Bunzo @Kominebunzo
1851年に英軍砲兵大佐が書いた火器発達史が面白い。初期の大砲から当時最新の後装式ライフルまでの進歩を説明し、試験データを掲げて命中精度と発射速度の増大で自分達は「軽歩兵戦術が大きく変わる重要な時代にいる」と説く。本当の変化はそのひと世代後に起きるけれども変革の意識は既にある。
Bunzo @Kominebunzo
試験報告の中で前装Jager rifleと滑腔マスケット銃との比較があって、距離137ヤード 2インチ標的での命中率は22%対13%でJager rifleが優るものの同距離の6インチ、18インチ標的での結果は互角。ミニエー銃以前の前装式ライフルの実力がわかるデータ。
Bunzo @Kominebunzo
英軍の試験成績では、旧式前装ライフルは近距離の精密射撃に向くものの、的が大きければ(=近ければ)命中率に大差なく、発射速度は前装滑腔マスケット銃が1.5倍優るということ。猟兵の運用が限定的になる理由がよくわかるような気がする。
Bunzo @Kominebunzo
英軍の試験成績(つづき) 距離205ヤードになるとJager銃の命中率は2インチ標的で5%、6インチ標的で8%、18インチ標的で12% 滑腔マスケット銃はそれぞれ6%、10%、28%で、遠距離ではマスケット銃の方が優る。
Bunzo @Kominebunzo
戦いを長く経験するだけでは軍隊は強くならない。戦争には相手があり、対仏同盟諸国軍も同じように戦いの経験を積んでいる上、相対的な損害は仏軍よりも軽いので、軍隊の戦力が「古参兵」の割合で決まるなら仏軍は相当に分が悪いことになります。錬度ではまず互角だろうというのが現代の評価です。
Bunzo @Kominebunzo
革命戦争は徴兵制が支える大軍が損害に耐える基盤を提供したことと、結果的にもたらされた錬度の低下した兵士による散兵戦術の多用が軍隊の運用を、まさに結果的に柔軟にしたのですが、それでは補えないものはどうにもならない。歩、騎、砲のうちの騎兵はその代表例で規模、戦闘能力とも弱体です。
Bunzo @Kominebunzo
1800年代の仏軍将校教育は革命戦争の戦訓から柔軟性をテーマに行われます。柔軟性とは1791年操典が掲げる密集隊形と横陣を巧みに操る本式の戦術と、臨機応変な散兵戦術との切換えを地形、戦況に合わせて適宜に素早く決断して実行できること。仏軍はこの本式の戦術が弱く改善目標となります。
Bunzo @Kominebunzo
士官の教育は野戦ではできません。ナポレオン時代には戦争と戦争の間の時期に改善運動が始まります。1801年から1803年にかけて各連隊には査察官が派遣され操典準拠の陣形変換の技量を審査し下士官まで操典の浸透を図り、士官と下士官はQCサークルを作り週2日の討議と研究が課せられます。
Bunzo @Kominebunzo
士官と上級下士官のQC活動で得られたPlanは下級下士官、兵へと展開され実際の演習で実行され、それが評価検討されて実施面の改善を行う・・・とそんな話をしても「ホントかぁ?」と言われそうですが仏軍のPDCAサイクルは実際にそんな感じです。
Bunzo @Kominebunzo
1800年代初頭には肉体的にフレッシュな新兵を大量に受け入れて新陳代謝しつつ戦力を高度に維持する近代的な組織が生まれつつあったということで、歴戦のつわものに戦力の発揮を頼る集団では消耗戦に耐えられないという事実に着眼、注力したことがナポレオン軍の最も優れた点ではないかと思います。
Bunzo @Kominebunzo
1804年から1805年にナポレオンが課したカリキュラムは週に2日の大隊運動と射撃訓練、3日の師団規模運動訓練、1日の軍団規模運動訓練で、この時期でも仏軍は1791年操典が戦術の基礎をなすと確信していたことがわかります。柔軟性はそれを前提にしたものでその代替品ではないということ。
Bunzo @Kominebunzo
性懲りもなくナポレオン話の続き。1808年に仏軍は編制を変え、戦術を転換。それまでの柔軟機動戦術から兵力を頼みの力押しに傾斜してかつての無敵陸軍は決定的な勝利を二度と掴めなくなる。戦術眼が衰えた、経験ある兵士が消耗した、など色々言われるけれども、そこで何が起きていたのか?
Bunzo @Kominebunzo
編制改革は基本的に火力と機動力を重視した従来のドクトリンに沿ったもので指揮官の負担を減らしてより柔軟性を持たせる考え方で進められた。砲兵出身のナポレオンが火力重視なのは当然として、今まで弱体だった騎兵部隊も大幅に充実する。これも機動力重視の現われ。何も変わらないはずだった。
Bunzo @Kominebunzo
華やかな各種騎兵が出現したせいでナポレオン時代は騎兵戦術の頂点にあるように感じられるけれども、根本的に火力に劣る騎兵はあくまで補助兵力。捜索、警戒が主任務で犠牲を伴う突撃は最後の手段。機動力は主に軍の眼として必要不可欠な捜索能力に生かされる。華やかだけれど主役はあくまで歩兵部隊。
Bunzo @Kominebunzo
新編制の大隊では経験と素質のある兵士は選抜歩兵中隊と擲弾兵中隊に集められる。戦力は向上する建前だけれども多くの連隊長はそれら精鋭を臨時大隊に編成して使ってしまう。古参兵はこうやって別扱いされ、若年兵に混ざらない。下手に混ぜると中隊ごと若年兵レベルの陣形変換しかできなくなるため。
Bunzo @Kominebunzo
仏陸軍の質的低下はどうか、というとより大規模な徴兵によって若年兵はどんどん入隊して来るけれども教育システムも機能している。ロシア遠征後の1813年でさえ65万の大軍が再編成され、この軍はそれなりに強く、局所的な勝利も数多い。仏軍は雪崩をうって敗走した訳ではなく激戦の末に後退した。
Bunzo @Kominebunzo
後期の仏軍は砲兵火力を頼りに密集隊形での強襲を主戦術に置いた結果、敵陣を蹂躙しても大損害により追撃、包囲の余力が無く敵主力を取り逃がす傾向が顕著にあった。鈍重な采配、保守的な戦術と批判され、錬度の低下が指摘されるけれども、仏軍自体も続く敗戦の中で捕捉撃滅されることがない。何故?
Bunzo @Kominebunzo
勝っても敵を撃滅できない戦いは数多くロシア軍相手のボロジノ戦もその一つ。両軍十万を超える兵力での会戦で三万人の損害。けれどもこのレベルの戦いは幾つもありライプツィッヒでは七万を超える損害。密集隊形での突撃が多用され兵力も損害も桁が一つ上がる戦闘結果のインフレ状態は何故生まれたか?
Bunzo @Kominebunzo
ナポレオンの戦術センスの鈍化を印象付ける後期の大損害と戦術的に魅力の無い戦い振りの背景には敵軍の戦術改革がある。革命戦争以降十年以上も苦杯を嘗めた敵軍が戦術を再検討しない訳が無いという至極当然な成り行きが歴史の上から見え難くなるのはやはり「革命」という言葉の神通力かもしれない。
Bunzo @Kominebunzo
1793年、対仏戦争に参戦した英大陸派遣軍の兵力は4万に満たず、戦術は指揮官各自に委任された。英将ダンダスが編纂した1788年教本は存在したけれども徹底されず、小兵力と無計画な戦術で敗北が続く。但し将兵は仏軍に士気で劣ることなく個々の部隊は勇敢に戦っている。こんな戦いが三年続く。
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