続き) 以上、留学先でどんな武術を習うか迷ってた時の「カリ教室とエスクリマ教室とアーニス教室では、習える事が違った」という私の思い出は、それなりに妥当なのじゃないかと http://t.co/beZlWDHAid
2013-04-21 12:12:07おまけ)世界各地のイエズス会が宣教したエリアには、フィリピンのカリ/エスクリマ/アーニスのような西洋剣術の名残が見られる古武術がある事から、イエズス会士が、キリスト教化した部族を守るべく剣術を教えていたと考える人々もいる。ただし、元々現地の武術があっただろう事はいうまでもない。
2013-04-21 12:25:51グランドマスターが語る、カリと西洋武術との大きな違い。コメント欄の賛否も(^_^;) "Kali owes no ancestry to any fighting arts" – http://t.co/JAoiEbEwkO http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 13:13:07「kaliは、オーストロネシアとポリネシア文化の、棒を意味する言葉だ。カリに影響しえたのは、三大帝国(シュリーヴィジャヤ、マジャパヒト、マラッカ)に朝貢していた東南アジア各国のみである」(前掲) http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 13:50:16前掲・続き1「マジャパヒト王国の最盛期における東南アジア各国との密接な関係は、ハイヤーム・ウルク帝の宮廷の祝い事に毎年招かれて、見物客の娯楽のために演武を行っていた事から明らかだ。フィリピンはマジャパヒト王国の朝貢国の一つだった。」 http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 13:52:38前掲・続き3「件の記事が考慮さえしない疑問の一つは、なぜ学のある豊かなフィリピン人が、わざわざ欧州のフェンシングとカリを統合する事などに苦心し、広める必要があったのか?という点だ。」 http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 15:06:00前掲続き・4「その時代、スペイン人への重い年貢で絶望と貧困に苦しむフィリピン人の多くが、街道での強盗に走った。 首狩りも存在して、結婚式に持参する生首を探していたため、嫁探しシーズンには常に危険だった。」 http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 15:09:06前掲続き・5「容赦のないモロ族の反乱も盛んで、スペイン系のフィリピン人への関心を妨げていた。そんな風に危険が多いため、豊かで教養のあるフィリピン人は、不必要な危険に身を晒さず、可能なかぎり家に籠って、安全で健康に過ごしていた。」 http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 15:12:19前掲続き・6「真相は、このフィリピンの武術は他のどんな武術をも祖とせず、地元で発達し、土着のフィリピン人によって作り出されたのだ。」 http://t.co/1GcZjHInF8
2013-04-21 15:24:24「アーニスは北部、エスクリマは中部、カリは南部の用語で、この場合単に、原住民の武器格闘の体系を指す。この定義を用いる人の多くは、これらの語は重要ではないという。村ごと、ほとんど先生ごとに、他とは全く異なるからだ。」 http://t.co/beZlWDHAid
2013-04-21 17:02:18「カリ/エスクリマ/アーニスのうち「カリ」なんて語はフィリピンにない!」って人、死亡。「ハワイ辺りでカリって言ってる人」ローランド・ダンテスさんの意見「あるけど?」。圧倒的。 http://t.co/beZlWDHAid
2013-04-21 18:14:13【ダンテスさんの反論・1】私は南部のミンダナオ、コタバト州で生まれました。父もミンダナオですがクラリン州、ミサミス・オリエンタルの生まれです。母はルソン島のイロコス-パンガシナン州から来ました。祖父はしばらくヴィサヤ地域の島(レイテ島)に住んでいました。
2013-04-21 18:19:01【ダンテスさんの反論・2】亡父は軍人だったため、様々な島へ任官されました(北から南まで)。その間、私の父クリマコ・ピントイは、コタバト州、ダバオ州、ラナオ州、ディポロン州、ザンボアンガ州で、軍の司令官に任じられました。
2013-04-21 18:19:53【ダンテスさんの反論・3】准将へ昇任した後、父は、南部の主要な島、ミンダナオ島、ジョロ島、スル島、パラワンを含む、第4軍事地域(当時はミンスパラと略されていました)の司令官となりました。父は、キャンプ・ラプラプ(ヴィサヤ地域のセブ市にあります)の副司令官にもなりました。
2013-04-21 18:24:42【ダンテスさんの反論・4】 父が最後に司令したのはカガヤン・デ・オロのキャンプ・エヴァンゲリスタですが、さらに父は、メトロ・マニラに位置するフィリピン軍の総司令部である、キャンプ・マーフィー(現在はキャンプ・アギナルドと呼ばれます)の基地司令官になりました。
2013-04-21 18:30:35【ダンテスさんの反論・5】 父は(もちろん国語であるタガログ語のほか)イロカノ語、パンガシナン語、北部ルソンのイバナグ方言、ヴィサヤ地域のビサヤン方言、イロンゴ方言に流暢でしたし、南部の島々(ミンダナオ、ジョロ、スル)のマギンダナオ、マラナウ、タウソグの各方言も知っていました。
2013-04-21 18:37:07【ダンテスさんの反論・6】ラナオのイリガンには、亡父の名を付けた基地、キャンプ・ジェネラル・クリマコ・ピントイさえ存在します。私は最近も訪れて、フィリピン陸軍兵士の一大隊に、我らが武術カリ/エスクリマ/アーニスのナイフ格闘術の無料セミナー/クリニックを提供いたしました。
2013-04-21 19:01:52【ダンテスさんの反論・7】 お分かりになったように、私はフィリピンの北から南まで、様々な島で育ちました。親戚は様々な島の出です。フィリピンは主にキリスト教の国ですが、南の島にはイスラムの親戚もいます。
2013-04-21 19:02:35【ダンテスさんの反論・8】私がフィリピンの様々な島で育ちましたのは、家族全員(偶然ですが、兄弟3人と姉妹4人は全員が別々の島で生まれました)が、父が再任される所ならどこへでも、引越しし続けなくてはならなかったからです。
2013-04-21 19:03:32