スッタニパータ 第三章 大いなる章 <12、二種の観察>

こちらは、1つ前のまとめであるサビアさんとの問答のように、『誰かから質問を受けて、それに対して仏陀が答えた』のではなく、仏陀自身が、【修行僧らよ】と呼びかけて、語られた句です このように、誰からも問われていないのに、仏陀が自ら口にされた句は、特に重要であるそうです
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AK @bdak52

「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、 従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。

2013-07-10 22:09:45
AK @bdak52

修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?

2013-07-10 22:10:21
AK @bdak52

『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。 『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。

2013-07-10 22:10:39
AK @bdak52

このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。 ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

2013-07-10 22:10:58
AK @bdak52

師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。 『物質的領域に生まれる諸々の生存者』と、『非物質的領域に住む諸々の生存者』とは、「消滅」を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

2013-07-10 22:11:40
AK @bdak52

しかし『物質的領域』を熟知し、『非物質的領域』に安住し、「消滅」において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

2013-07-10 22:12:08
AK @bdak52

修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。 どうしてであるか?

2013-07-10 22:13:11
AK @bdak52

『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは真理である>と考えたものを、 諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。

2013-07-10 22:13:48
AK @bdak52

『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>と考えたものを、 諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』 ──これが第二の観察[法]である。

2013-07-10 22:14:30
AK @bdak52

見よ、神々並びに世人は、『非我なるものを我』と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。 「これこそ真実である」と考えている。

2013-07-10 22:15:03
AK @bdak52

或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。 何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。 過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

2013-07-10 22:15:59
AK @bdak52

安らぎは虚妄ならざるものである。 諸々の聖者はそれを真理であると知る。 かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

2013-07-10 22:16:43
AK @bdak52

修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 

2013-07-10 22:17:19
AK @bdak52

『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは安楽である>と考えたものを、 諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。

2013-07-10 22:17:44
AK @bdak52

『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは苦しみである>と考えたものを、 諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。

2013-07-10 22:18:05
AK @bdak52

有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意(こころ)に適うもの、──

2013-07-10 22:18:58
AK @bdak52

それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 またそれらが『滅びる』場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

2013-07-10 22:19:35
AK @bdak52

自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。 (正しく)見る人々のこの(考え)は、『一切の世間の人々と正反対』である。

2013-07-10 22:20:12
AK @bdak52

他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。 【解し難き真理を見よ】。 無知なる人々はここに迷っている。

2013-07-10 22:20:59
AK @bdak52

覆われた人々には闇がある。 (正しく)見ない人々には暗黒がある。 善良な人々には開顕(かいけん)される。 あたかも見る人々に光明のあるようなものである。 理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

2013-07-10 22:22:09
AK @bdak52

生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。 この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

2013-07-10 22:22:57
AK @bdak52

師(ブッダ)はこのように説かれた。 修行僧たちは悦んで師の所説を歓喜して迎えた。 実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。 スッタニパータ 第三章 大いなる章 <12、二種の観察>

2013-07-10 22:25:18