山本七平botまとめ/あったがままを編むのが歴史(ヒストリア)/~「歴史」と称する対象への”臨在感的把握”にすぎない日本人の歴史観~
- yamamoto7hei
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①【あったがままを編むのが歴史である】といえば、否、日本人は歴史愛好民族、しかもマルクス主義的進歩を信じ、対象を「歴史の流れ」として捉えているではないか、という反論は当然に出るであろう。 だが、旧約聖書の歴史の捉え方と、日本人の歴史の捉え方は根本的に違っている。<『存亡の条件』
2013-07-11 21:27:45②たとえば教科書裁判で有名な教授は、戦前は皇国史観、戦後は人民史観なのだそうだが、こういう対象の捉え方、いわば前者を消して、後者に一本化する捉え方は、それ自体が「歴史」と称する対象への臨在感的把握にすぎないのである。
2013-07-11 21:57:51③そしてその過去の延長に未来を臨在感的に把握すれば、二つの偶像に感情移入して対象を把握しているというだけのことにすぎない。 いうまでもないことだが、旧約聖書には、この種の把握の仕方は皆無である。
2013-07-11 22:28:02④この場合を例にとるならば、皇国史観の記述も残し、人民史観の記述も残して、両者の矛盾をそのまま置いておく事が「歴史」(記録)なのであって、こうしない限り、歴史というものはあり得ないと彼らは考えていた。 この点は終戦時の日本の歴史教科書を例にとった方がわかりよいかも知れない。
2013-07-11 22:58:10⑤戦前の皇国史観に基づく教科書の各章各節の本文はそのままに残し、その後に、改訂・挿入・削除する等の注記をつけて、これを増補訂正する形で、戦後もそのままに使えば、非常に歴史的な歴史教科書といえるであろう。
2013-07-11 23:27:59⑥こうしておくと過去を勝手に改変してそれを臨在感的に把握するという形にはならず、過去は全く別々の対立概念で把握できるし、同時に、これを累積していけば、それ自体が一つの的確な史料性をもつ歴史となりうるからである。 これが旧約的行き方だが、一方日本的行き方はこうでない。
2013-07-11 23:57:58⑦従って、皇国史観を消して人民史観を打ち出したところで、それは、過去を偶像化してこれを臨在感的に把握させているという点では、戦前と少しも差はない。 そしてそれを進歩と信じているなら、その態度も戦前の皇国史観化と寸分違わない。
2013-07-12 00:27:38⑧そしてこの歴史の臨在感的把握が、それによる天皇把握より困る点は、歴史を科学と規定されて、自分の意志で再発見することを否定され、もっと完全な偶像になりうるからである。 そしてこの偶像に感情移入し、それに呪縛されている者は、戦前同様に決して少なくない。
2013-07-12 00:57:53⑨このことは『空気の研究』で詳述したので再説しないが、対象に感情移入をし、これを臨在感的に把握し、その把握を絶対化すると、人間は逆にその対象に支配されてしまうのである。 これがいわゆる偶像支配であって、これを行う限り、いかなる対象でも偶像となり、従って神話となりうるのである。
2013-07-12 01:27:38⑩歴史教科書を前述のような形で戦前戦後を通じて編集しておかないと、戦前は「神話を事実として教えた」などという神話ができて、人びとがそれを信ずる結果になってしまう。
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