佐藤正美Tweet_20130801_15

0
佐藤正美 @satou_masami

どんな物にも部分と運動があるだけだ。すべては部分と運動との上に展開されて、運動はただ外部的作用であり、物はただ部分的組成である。物の「本質」などと仮にも口に出すな。「本質」を描いたというモデルらしきものを観ても、事業の「本質」という様な唯一の証拠が全然存してないではないか。

2013-08-05 03:54:32
佐藤正美 @satou_masami

頭のいい人は、めったに論理には騙されないが、不思議にと云ってもいいほど、記号(言語)には騙されやすい。記号の見えないウラ面をあまりにも早急に判断し、決めつけ、そして憶測するからだ。モデル制作では、ロジシャンは語の説明を、また判断をさえ、さしひかえている。

2013-08-06 03:46:27
佐藤正美 @satou_masami

「ゲーデルの不完全性定理」が褒め手の長い行列を従えず初めて日本で公表されたとしたら、ほとんどの批評家たちはちんぷんかんぷんな証明として無視するだろう。そして、ぬかりなく批判的な理屈を並べるにちがいない。あの証明をあるがままの形で認めるのはスコーレム氏でも難しかったのだから。

2013-08-07 01:13:08
佐藤正美 @satou_masami

新しい理論には同情を禁じえない。一切の賞賛の行列を従えず他人の拍手に頼る事もできないまま登場するのだから。すぐれた理論でも、前評判も聞いていない様な状態であったら、我々は注目しないだろう。否、怪しいと睨み、僅かな落ち度を探すだろう。しかし、賞賛に騙される事も往々にしてある。

2013-08-07 01:13:41
佐藤正美 @satou_masami

我々の頭脳は、「選ぶ」事が苦手で、承認(あるいは、批評)する事を好む様だ。理論がすぐれたものかどうかを判断するには不向きで、それについて批評するのに向いている様だ。専門家であっても独力で判断したあとでは覚束なさを感じるのではないか、「選ぶ」主体は「社会」なのだ。

2013-08-08 05:33:07
佐藤正美 @satou_masami

文体は、記号(言語)という物質的な必要条件によって思想に刻みつけられた表現である。この必要条件のうえに、精神というもの、記号と精神の関係も、考えられなければならない。感動しながら考えるというのは難しい。事実、感動というものは文体を持たない。

2013-08-12 05:59:22