家族社会学における家族定義をめぐって
拝読。/久保田裕之,2010,「家族定義の可能性と妥当性――非家族研究の系譜を手がかりに」『ソシオロジ』55(1).
2013-07-17 23:42:58こちらも拝読。拙著がかなりのキーポイントで引用されていました。ありがとうございます。/松木洋人,2013,「家族定義問題の終焉――日常的な家族概念の含意の再検討」『家族社会学研究』25(1).
2013-07-19 22:39:08もう1周ずつ。正面から対立しているわけではないね。/久保田裕之,2010,「家族定義の可能性と妥当性」『ソシオロジ』55(1),松木洋人,2013,「家族定義問題の終焉」『家族社会学研究』25(1).
2013-08-19 11:23:16「家族の定義の不可能性」を主張する議論はおかしい、という(おそらく一番重要な)点については、たぶん両者は一致できるだろう。考えが分かれているのは「定義をする」という研究上の営みについてであるように思われる。
2013-08-19 11:23:40細かい点だけ言うと、久保田論文は「定義の可能性/不可能性」という論点に「主観/客観」という区別が混ざってくるのがやや争点をわかりにくくさせているかもしれない。
2013-08-19 11:24:25「客観的定義の不可能性」を主張する議論を主要な論敵としつつ、著者本人も「対象にすでにある差異を、客観的に過不足なく取り出すことが定義なのではない。そもそもそのようなことは不可能」と述べていたり。
2013-08-19 11:24:38松木論文については、主観的家族論や構築主義的家族研究をまとめて「中傷効果の解消の試み」としている点が、「定義をする」タイプの研究と著者の立場との関係を過剰に対立的に見せていないか気になる。中傷効果はもうちょっと個別的にその有無が論じられたほうがよい現象ではないかと思う。
2013-08-19 11:25:09しかし久保田論文読んでるとラディカル構成主義とヴェーバー~パーソンズ的新カント派認識論の違いがようわからんくなった。
2013-08-19 11:31:44@frroots 後者の論文の著者でございます。小宮さんに2回も読んでいただけて光栄です。おっしゃる通り「『家族の定義の不可能性』を主張する議論はおかしい」という点はまったく賛成しております。ですので、「定義をする」タイプの研究に対立しようとするつもりもありません。
2013-08-20 23:40:58@frroots ただ論文ではうまく触れられませんでしたが、定義が可能だということはいかように定義されてもよいということとは違うはずなのに、久保田論文ではそこを研究者の関心や政治性に還元するような議論をしているようにも思われるので、これには違和感を感じます。
2013-08-20 23:47:47@hrtmtsk どうもですー。家族研究については私はよく知りませんので勉強になっております。「いかように定義されてもよいというわけではない」点には同感です。
2013-08-21 09:06:42@hrtmtsk ただ「いかように」とはいっても、久保田論文の枠組内で「定義」と呼ばれているものは、「家族の定義であることの理解可能性」を何らかの形で保持しているものであるようにも思います。まあこのあたりはご本人に伺うのが一番です。
2013-08-21 09:14:05@hrtmtsk そういえばお会いする機会があるのでした。もしお時間ありましたら、是非いろいろお話聞かせてください。
2013-08-21 09:14:47