- kei_sadalsuud
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@hirakawah はい。一方で、矛盾する言い方なのですが、行為遂行的な意味が問題となるからこそ、「科学」の一部はディシプリン内在的な文脈(事実確認的な意味)において明らかに科学ではないと言えることがあり、それをいうことが(メタでない)科学者に求められるはずなのです。
2013-08-22 10:29:19@hirakawah それは多分、疑似科学とされるものが科学を名乗ったときには、事実確認的文脈での権威争いになり、名乗らなければ、社会的文脈の問題なんだと思います。「適切な擬似科学批判」は科学を名乗った場合の事実確認的文脈での権威の確認。
2013-08-22 10:34:13@hirakawah 科学を名乗らない場合にまで、出張っていって論争するのは余計ななにかなのかなと思っています。(これは私の区分からくる帰結であるだけで、一般化はできないでしょうねw)
2013-08-22 10:36:07@sakinotk @hirakawah 科学/「科学」という対立構造が成立していないというのはその通りです。これは対立構造ではなくて、両立し得る特性なんだと思っています。科学/疑似科学はどうでしょうね。対立とはいいませんが、(科学側の視点に立てば)概ね排他的関係ではないかと…
2013-08-22 10:39:54@hirakawah というような議論はもう少し整理すると、エルゼビアの原稿の前半になりそうですね。これまでの原稿は理論面が弱かったので、補強できそうに思います。
2013-08-22 10:43:01で、こういう机上の空論にしか見えない抽象論が実践にどう役に立ってきたかというと、たとえば、「子ども…科学者ネットワーク」の活動に役立ったわけ。 (ある意味詐称ながら)科学者として発信する内容、根拠とするデータは、可能な限り「科学」文脈に引きづられないようにするといった配慮とか…
2013-08-22 10:48:16つまり、社会的文脈にできるだけ踏み込まないということ。そうは言っても、もともとそういう問題だから、どうしようもないところだらけだけどね。
2013-08-22 10:51:26@M_shirabe @hirakawah 昨日、「「抱かれた幻想」=(かっこつきの)「科学」ということになる」ということだったと思うのですが、確かに常に「両立」ですね。ただ、内容的に、《科学》も《「科学」》も同一で、でもちょっとへんといった場合はどうなるのでしょう(↓)。
2013-08-22 11:18:24@M_shirabe @hirakawah 例としては、ルイセンコ一色の当該国のみを見た場合、あるいは、原発のPA言説、一時期の性分化メカニズムの言説(視点のかたより)など、主流側が妙で、しかも批判が希薄で言説として顕在化していないケースなどを念頭においています。
2013-08-22 11:21:41@sakinotk @hirakawah はい。その時のメタ科学者の役割は何なのだろうと震災以降悩んで、個人的に今回はなんちゃって科学者として行動しようと決断しました。メタ科学者に何ができるのかは私にとっては謎です。
2013-08-22 11:28:47@M_shirabe @hirakawah なるほど、平川さんがまとめてくださった表の中で完結するわけでなく、外や裏や、手前があるのですね。それも、うまく、表に書き込めるとわかりやすいのかも……かってな外野席ですみません。
2013-08-22 11:44:25@M_shirabe あと、「社会的文脈にできるだけ踏み込まないということ」なのですが、人権宣言レベルみたいなことは、「(奥に)踏み込む」でなく「前置き」として必要かもと、今般の「遺伝の有無にかかわらず結婚、子産み可」に鑑み考えました。
2013-08-22 11:52:55@sakinotk それはした方が良かったのかもしれません。ただ、なんちゃって科学者としては「理念型」に滑稽なまでに忠実である方がよいという判断でした(^_^;)
2013-08-22 14:11:42@M_shirabe あっ、一般論としての整理のしかたということでした。ご言及の個別ケースですが、あの時期であれば、自分(そんなスキルないけど^^;)も同じ判断だったかと。ここまで深刻な状況とは、長年そうした事象をウォッチしてきたのに気づけなかったわけで猛省しています。
2013-08-22 14:19:13