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さてと。23時も過ぎましたという所で。 それでは、実に8日ぶりとなります、 #鳳翔の艦娘講座 を始めたいと思います。 何時もの様に拙いお話ではありますが、酒の肴・寝物語と聞いて頂けると幸いです。 本日の艦娘ちゃんは、未実装艦から、軽巡洋艦・矢矧さんです。
2013-09-16 23:03:52初代矢矧さんは、筑摩型防護巡洋艦3人姉妹の次女として建造をされました。 筑摩型防護巡洋艦については、以前筑摩さんの講座を行った時に解説をしましたので、ここでは省略をさせて頂きます。 簡単におさらいをしますと、軽巡洋艦への過渡期の巡洋艦で、天龍型軽巡洋艦の前型にあたります。
2013-09-16 23:06:55また、筑摩型防護巡洋艦は機関の実験的要素を持たされたので、3姉妹がそれぞれ装備した機関が異なるというのも特徴の一つです。 さて、初代矢矧さんですが。 1910年6月に起工、1911年10月に進水、1912年7月に就役をします。
2013-09-16 23:11:22就役後は第一次世界大戦に参加。 南西諸島占領作戦、南シナ海・インド洋・スルー海での作戦に従事をします。 初代の筑摩さんとペアで第4艦隊に所属、ドイツ東洋艦隊の通商破壊を阻止する為まずは1916年にオーストラリア・シドニーに派遣をされます。
2013-09-16 23:14:29しかし、その半年後に護衛任務を解かれ、第1特務艦隊となってインド洋での通商保護作戦に従事をします。 第一次世界大戦後、1923年から1937年までの間において、主に中国水域の警備活動に従事をします。活動は主に旅順港だったそうです。
2013-09-16 23:18:03その後、1940年4月に除籍をされまして、廃艦12号と仮称。 呉海兵団の練習船として使用されます。 1943年には大竹に回航をされ、海軍潜水学校で練習艦として使用をされます。 そのまま、太平洋戦争も終戦を迎え、1947年に解体をされました。 以上が、初代矢矧さんの戦歴です。
2013-09-16 23:20:16@Robert_RJSN そうですね。太平洋戦争時の戦歴とかは、練習艦でしたから戦歴とかはありませんが、空襲被害とかも受けた記録が特に見つかりませんでしたね。
2013-09-16 23:31:45初代矢矧さんの諸元ですが。 全長144.8m、全幅14.2m、常備排水量5000トン、速力26ノット。この時代はまだ石炭と重油の混合燃料の時代で、重油300トンに対して石炭1000トンを積載。 15.2cm単装砲8門、 7.6cm単装砲4門、 45.7cm魚雷発射管3門、を装備。
2013-09-16 23:22:31以上が、初代矢矧さんの解説でした。 引き続いて、艦これ時代的に「今の」矢矧さんの解説に入ります。 球磨型から続く5500トン級軽巡洋艦を水雷戦隊の旗艦としていた海軍は、列強との建造競争によって向上した造船技術や兵装の大型化などを元に、軽巡洋艦も大型化を模索しまます。
2013-09-16 23:28:091939年の第4次軍備充実計画で、新型巡洋艦6隻の建造が承認をされ、そのうち4隻が水雷戦隊旗艦用の軽巡洋艦として建造をされる事になりました。これが、阿賀野型軽巡洋艦です。 ちなみに、残り2隻はその次型にあたります大淀型です。
2013-09-16 23:30:24阿賀野型軽巡洋艦の特徴としましては、それまでの軽巡洋艦で標準的に採用されていた主砲の14cm単装砲から、より大きな15.2cm連装砲に改められた事です。 これは、金剛さんの副砲に使われていたヴィッカース社の15.2cm速射砲のライセンス生産品です。
2013-09-16 23:36:13ただ、触れ込みとしては最大仰角55度まで取れて高角砲の不足分を補える、とありましたが、砲塔内の容積不足等から実用的な対空射撃には用いられなかった模様です。 また、高角砲については巡洋艦で標準的に採用されていた12.7cm高角砲では無く、新開発の7.6cm高角砲を採用して居ます。
2013-09-16 23:39:35この高角砲は艦これには未実装です。 小型の船体に適応させる為、大鳳さんや秋月型駆逐艦で装備された10cm高角砲を小型化したもので、伊吹型空母にも採用される予定でした。 そもそも阿賀野型が水雷戦隊旗艦用に建造された事を受け、高角砲自体はそれほど多くは装備されていませんでした。
2013-09-16 23:43:23なお、威力不足があった為か、サマール沖海戦後に矢矧さんはこの高角砲を10cm連装高角砲に換装する要望を出したそうですが、換装は行われなかったそうです。 さらに、機関の蒸気圧は歴代巡洋艦の中では最高の缶圧を出していたそうです。
2013-09-16 23:45:53とまあ、そんな幾つかの新機軸が阿賀野型には盛り込まれて、建造をされていきます。 さて、矢矧さんですが。 その阿賀野型軽巡洋艦4人姉妹の3女として、1941年11月に起工、1942年10月に進水、1943年12月に就役をします。
2013-09-16 23:48:41就役後の1944年2月にシンガポールへ進出、リンガの哨戒と訓練に従事をします。 その際、長女の阿賀野さんが撃沈された事を受けて、第10水雷戦隊の旗艦になります。 1944年5月、タウイタウイ泊地へ移動、ここでも訓練に従事をします。
2013-09-16 23:51:131944年6月、マリアナ沖海戦に参加。 この戦いでは矢矧さんの目の前で翔鶴さん、大鳳さんが撃沈をして、その乗員救助に当たっています。 その後瑞鶴さんを護衛して対空戦闘を実施、護衛を全うします。
2013-09-16 23:53:30その後日本へ帰国。主に対空装備の増強の改装を受けた後、1944年7月にリンガ泊地に進出をします。 1944年10月、レイテ沖海戦に参加。 24日のシブヤン海海戦では、水上偵察機を射出後に米軍の空襲を受けます。
2013-09-16 23:57:13この戦いでは矢矧さんは左舷に至近弾、後部兵員室に爆弾被弾、艦首至近弾で錨鎖機室の火災発生と云う被害を受けます。 これが元で、右舷艦首に直径4~5mの穴が開き、速力が22ノットに低下。 応急修理で28ノットが発揮可能となりますが、30ノット以上を出すと穴が広がる危険があったそうです
2013-09-16 23:59:00あったそうですが、翌日のサマール沖海戦では無理をして32ノットを出しています。 翌日10月25日、サマール沖海戦に参加。 米護衛空母艦隊と交戦をして、混乱する戦況の中で戦果報告も錯綜していますが、後の検証ではこの時の矢矧さんの戦果は砲撃による米駆逐艦1の撃沈でした。
2013-09-17 00:03:46その後、艦隊は撤退行動に移りますが、帰路でも18回に及ぶ空襲を受ける事になります。その中で矢矧さんは至近弾で魚雷発射連官室で火災が発生する被害を受けます。 ブルネイに帰投後、矢矧さんは第2水雷戦隊に編入、旗艦となります。
2013-09-17 00:06:40その後帰国をして、レイテ沖海戦で受けた損傷の修理を受けます。 修理箇所は1000カ所を超えたそうです。 その後は1945年3月までは日本海域に留まり、その後周防灘、三田尻沖に停泊をします。 1945年4月6日、天一号作戦に参加する為、大和さん達と合流。
2013-09-17 00:09:501945年4月7日、坊ノ岬沖海戦に参加。 空襲開始早々に左舷中部、続いて艦尾に魚雷が命中し、機関が停止して航行不能になります。 その後は標的艦状態となってしまい、多数の直撃・至近弾を受ける事になります。 最初に魚雷と水上機を投棄した為、誘爆は避けられ長らく戦闘を継続していました。
2013-09-17 00:13:08