マタイ受難曲(BWV 244)の自由詩部分について
1つだけ冒頭に示されてないものを挙げるならば、「イエスは私たちの内に」という観点だけは掲げられていない。このメッセージはソプラノのWiewohl mein Herz in Tränen schwimmtでまず提示され、曲が進むに連れて強くなっていく。
2013-09-22 02:30:01実を言うと、今自分自身も非常に驚いていて、全体を通して聴き手がすべき事はというと「来なさい、見なさい、嘆きなさい」これに尽きるのだ。何を難しく考えてきたのかという感じだ。「何を見て、何を嘆くのか」わざわざ親切にQ&Aの形で書いてある。
2013-09-22 02:38:51そもそもなんで本稿…というか、こんなものを書き始めたかというと、「いかにマタイ受難曲が前提知識無しで理解し難いか、知識に基づいた"解釈"が必要な代物であるか」みたいな部分があったのだが、ある程度分かると、とてもシンプルな構造なのではないかと思い始めるに至った。
2013-09-22 02:43:39総括
多かれ少なかれ福音書の記事には解釈が分かれる部分がある。「これはこういうことを表している」と示すのは、主に司祭による説教の役割だが、ここまで見てきた通り、この受難曲のテキストと音楽は、福音書の記事についての”一定の読み方”を提示するかのように書かれている。
2013-09-21 03:13:20言い換えると、マタイ受難曲の自由詩部分は、福音書記事から当然に導き出されるものではなくて、ピカンダー/バッハの福音書への見解として解すべき、ということになるだろう。ここまで自由詩部分を読んできて、ある種の方向性が見えてきた。
2013-09-21 03:17:55「一人の人間イエスが、救いをもたらすために、自らの意思で受難に臨む」一方で 「愚かな弟子たちと全ての人はそのことに気付かずに罪を犯し続けるが悔い改める」 また信徒として 「イエスの愛と苦しみを知り、痛みを分かち合い、それに感謝し、イエスを受け入れ一体となる」
2013-09-21 03:25:11マタイ受難曲のテキストと音楽自体が、バッハ自身の福音書への見解として解釈すべき、という話だったね。しかしそもそもマタイ受難曲は礼拝中で使われることを予定しているわけだから、それ自体で完結している必要はないのだ。
2013-09-22 00:23:23第一部と第二部の間には説教が入るという想定だし、演奏前にも演奏後にもミサが続いている。これら周辺のものを含めて「一つのパッケージ」として作る、と考えるのが妥当だろう。
2013-09-22 00:26:24実際バッハの教会カンタータは単品で聞くというよりも、その歌詞と音楽だけで解釈出来る代物ではなく、その日朗読される聖句と密接な内容になっており、更にいうとその日の説教で"解説"が入ることすらも想定されていると考えるべきだ。
2013-09-22 00:27:38しかし、マタイ受難曲は終曲で”完結”しているように印象を受ける。そもそもどんなに速く演奏しても3時間弱かかる構成は長大すぎる(ヨハネで2時間弱)。この作品は礼拝音楽でありながら、バッハ個人の福音書解釈を示した「芸術作品」として捉えるべき特徴がいくつもある。
2013-09-22 00:35:324曲の受難曲が書かれたのはバッハのライプツィヒ赴任から数年以内なわけであるが、バッハがトーマスカントールに選ばれたのはここにはテレマンとグラウプナーが辞退してしまったための「補欠の補欠」としてであって、受難曲作曲にはバッハの”もがき”が強く出ているという説を見つけた。
2013-09-22 00:41:26ライプツィヒでの冷遇への憤慨、とりわけ牧師との対立により礼拝でのコラール選定権が奪われたことへの「反抗」なのではないかと。それによりなおさら、教会オフィシャルな見解から逸脱してバッハの個人的な見解を示す性質を帯びた、という。(ちょっとこの件については長くなるのでまたいずれにしよう
2013-09-22 00:48:00おそらく全体をちゃんと書き直せば、それなりに価値のあるものになると確信している…ので、いずれやろうかと思っています。とりあえず、一連の投稿はこれにて終わりということで。
2013-09-22 02:45:22参考文献
礒山雅(1985)『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』
磯山雅(1994)『マタイ受難曲』
磯山雅・小林義武・鳴海史生(1996)『バッハ辞典』
樋口隆一他(1998)『バッハ全集 第8巻 ミサ曲・受難曲[2]』
杉山好(2000)『聖書の音楽家バッハ《マタイ受難曲》に秘められた現代へのメッセージ』
井形ちづる・吉村恒(2007)『宗教音楽対訳集成』
若林敦盛(2008)『対訳J.S.バッハ声楽全集』
あまりにも壮絶な研究と新説だったのでここまで出すのを避けていたのだが、今一番先鋭的なマタイ受難曲研究をしているのは多分これだ。 『J. S. バッハ・コード』 橋本=後藤 保 http://t.co/wvUR1uY4Vh
2013-09-24 02:51:40おそらく、いずれ出版予定の原稿を、書きながらWeb公開しているものだろうか。見つけたのはつい先日なのだが、面白すぎて一気読みした。
2013-09-24 02:52:59この論考、端的に言えば、「バッハ異端説」だ。ライプツィヒ・トーマス教会赴任後、教会との致命的なトラブルがあった可能性が大きいことを念頭に、マタイ受難曲中随所に「明らかに意図されて」書かれている”教会批判”と、教会の見解の異なるバッハ独自の福音書解釈を読み解いている。
2013-09-24 02:58:03とりあえず、これについては紹介しておきたかったのだ。磯山先生の本が長らくマタイ/バッハ研究の基本書のようなポジションにあったけど、それをはるかに凌ぐ説得力を感じた。これはほんとにすごい。
2013-09-24 03:10:07@noxatra 今更な感じの質問です…… プロテスタントは自殺を厳禁にしているイメージがあるんですが、ユダはどういう赦しを得たんですか?
2013-09-24 08:03:14@2361john ちょっと…細かい話は夜かな。バッハの解釈上の話なら、「der verlorne Sohn」の解釈の問題だ。例の論説だけど、概ねこの記事にに賛同。http://t.co/pOQpb05d4X 「どういう赦しか」という問いの答えにはなってないかもしれないけど…
2013-09-24 09:13:37@2361john 長らく自殺については旧・新教を問わず殺人の一種として罪になるとされていたっぽい(見解が緩くなったのは比較的最近)。そもそもユダ救済説を当時の教会は取っていないし、バッハの解釈上ありえないのではというのはもっとも疑問。そこで『バッハ異端説』が真実味を帯びてくる…
2013-09-24 20:57:32