フトバと年号

Twilog漁ってたら出てきたフトバと年号の比較をまとめてみました
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匈奴の人 @toquzoguz1055

フトバと年号の話について、まとまるかどうかわからんけどだらだら呟いてみようと思う

2012-12-01 21:10:14
匈奴の人 @toquzoguz1055

まず、より馴染みが無いであろうフトバとは何か。これは訳すとだいたい「説教」ないし「講話」という日本語に該当するもので、モスクでの金曜礼拝の時に、説教師が色んなテーマで語りかけるもの。

2012-12-01 21:12:33
匈奴の人 @toquzoguz1055

政治的に重要なのは、このフトバは最後が「このフトバを○○の名において読む」という形式で結ばれること。「○○」には時の支配者(名目上であることもある)の名前がはいる。

2012-12-01 21:14:17
匈奴の人 @toquzoguz1055

カリフ時代ならカリフの名前、スルタンが実権を持つようになると、スルタンひとりの名において、あるいはスルタンとカリフのふたりの名においてフトバが読まれるようになる。

2012-12-01 21:14:48
匈奴の人 @toquzoguz1055

これは自分たちを支配している王権を、一週間ごとに確認する儀礼だった。では翻って年号の使用はどうか。

2012-12-01 21:17:01
匈奴の人 @toquzoguz1055

年号はユーラシア東方において見られるもので、歴代の中華王朝、ベトナム、朝鮮半島、日本などで用いられており、中国の影響が強かった時期であれば中央アジア方面でも独自の年号が使われた(高昌国の年号、西遼の年号など)

2012-12-01 21:19:29
匈奴の人 @toquzoguz1055

日本では年号制定は天皇の専権事項で、これは本来一つしかないはずのもの。だが、南北朝時代には二天皇が並立し、年号も二通りのものが使われた。

2012-12-01 21:21:33
匈奴の人 @toquzoguz1055

南朝年号を用いるか、北朝年号を用いるかで、どちらの権威に従っているか(これも名目的な場合を含む……のだろう)を示した。もっとも、フトバのように一般民衆が毎週それを確認していたかというと、そんなことは無いとは思うが

2012-12-01 21:23:23
匈奴の人 @toquzoguz1055

また中国においても、分立期に独立政権ではあるが、一応の宗主権を認めた相手国の年号を使うということがよくある。

2012-12-01 21:28:29
匈奴の人 @toquzoguz1055

フトバも年号も、支配者(くどいが名目的な場合も含む)を確認するツールであり、「フトバを切る」ことや、「改元を拒否する」ことによって、その権威を認めない意志を表明することができた

2012-12-01 21:33:04
匈奴の人 @toquzoguz1055

具体例を挙げると、足利持氏が正長年号を二年余分に用いたり、李克用が後梁の成立を認めず唐の天佑年号を使い続けたり、フトバの場合ではダマスカスのアトスズがファーティマ朝カリフへのフトバを切ったり、ジャバラのイブン=スライハがセルジューク朝からアッバース朝へフトバを切り替えたりした

2012-12-01 21:46:26
匈奴の人 @toquzoguz1055

(武田氏なんかが私年号を用いたこともあったらしいが、どうもこれはどういう性格なのか議論があるそうだ)

2012-12-01 21:33:43
匈奴の人 @toquzoguz1055

だから何? と言われると特に意見は無いのだが、フトバの説明をするのに年号を例えに用いることもできるかもしらんなあと思った(ダメな結論

2012-12-01 21:38:03