【三国志】蜀漢における牙門将(牙門将軍)について
@HAMLABI3594 提示されたwebサイトは見てみたが、どれも蜀漢に関する言及にはなりえないように思う。本については中身を読んでいないが、目次を見る限りはそう思う。なので、俺としては、蜀における督将等の存在を確実なものとする見解は取れない
2013-10-18 21:39:59@Jominian 費詩伝「王沖者廣漢人也為牙門將統屬江州督李嚴」王平伝「屬參軍馬謖先鋒」郭淮伝「太和二年蜀相諸葛亮出祁山遣將軍馬謖至街亭高詳屯列柳城」『華陽國志』「丞相亮征隴西平以牙門屬馬謖」蜀の資料だけでは確定できないな。森本論文にも蜀については何もなかった。
2013-10-18 22:25:40姜維は麹山に城を築いた時は節を仮されていた。つまり、それまでの涼州刺史として廖化を連れていたこと以外に、別に軍を率いていたことになる。これが句安らのことなのかは不明だが、節を仮すには仮すなりの理由があり、馬謖や馬忠の例からは、牙門将の統率に節が必要なかった可能性を示している。
2013-10-18 23:12:59牙門将の統率に節が不要だったというのはどういうことか?これは、牙門将が、その牙門将を統率した人物に属する役職だった、という可能性も当然あるが、恐らくは違うだろう。だが、費詩などは普通に李厳の属官だった可能性もある。
2013-10-18 23:26:37牙門将の統率に節を要さなかった例は、馬謖と馬忠の例である。姜維は、それが牙門将の統率のためにかどうかは不明だが、節を仮されていた。思うに、馬謖と馬忠の例が、通常の、節を仮すような状況とは異なっていただけなのだろう。
2013-10-18 23:28:24馬忠も馬謖も丞相参軍である。彼らは、丞相参軍として牙門将や他の将軍を観察する存在だったということだろう。実質的には率いていたとしても、指揮官として牙門将らを統率したわけではなく、丞相の耳目として監視をする役目だったのだ。したがって、丞相の名代であるが故、節が不要だった。
2013-10-18 23:33:31馬謖や馬忠が、軍監として牙門将らを統率していたとすれば、本来は節が必要だった、すなわち一軍の指揮官としての機能を牙門将が有していたとすることができる。また、王平にしても張嶷にしても、参軍を伴って別働隊として動いたとみなせる。これは句安らの運用と同じである。
2013-10-18 23:40:46牙門将が一軍の指揮官、すなわち、将軍かそれに準ずる役職だったのであれば、将軍として記載されてもおかしくはない。また、そうであれば、趙広にせよ、句安にせよ、張嶷にせよ、牙門将が属するのは皇帝か、或いはそれに準ずる軍権を与えられた者ということになる。
2013-10-18 23:51:35@Golden_hamster まあね。なので、牙門将が将軍と記載されたことのみを以って、何らかの結論を導くのは性急過ぎるかなと思う。
2013-10-19 00:11:21蜀における牙門将って、位階としては高くなくても、定員が少なくて格の高い役職だったんじゃなかろうか?と言うか、定員が1名な気がしてきた
2013-10-19 00:16:08蜀における牙門将は、入蜀以前:趙雲、入蜀~漢中王就任:魏延、漢中王~夷陵前:王士、夷陵前後:向寵、建興の初め頃:龔禄、諸葛亮漢中駐屯時:王沖、第一次北伐前後:王平、第一次北伐以降:張嶷、延熙年間初め:劉林、延熙年間中頃:句安、延熙年間後半以降:趙広、という感じだったのではないか?
2013-10-19 00:26:20蜀の牙門将は、王平が降伏時に牙門将に任命されたという記述以外は、皆、就任時期を重ねることなく並べられる。もとより劉備の牙門を守る近衛兵が独立した部隊となることで始まったとすれば、規模は小さくとも精鋭を指揮する、全軍に一つの重要な軍指揮官として設置されたとしてもおかしくはない。
2013-10-19 00:30:13趙雲:牙門将の後に翊軍将軍を経て中護軍に、魏延:牙門将より督漢中に、向寵:牙門将より禁軍指揮官である中部督に、王平:牙門将より精鋭部隊無当の指揮官に、牙門将として優れた働きを見せると、軍の中枢に食い込むことが出来る。
2013-10-19 00:39:29@Jominian .@HAMLABI3594 @Golden_hamster ツイートを使ったわ。問題あったら連絡よろ。 http://t.co/6q62ixWvDA
2013-10-19 00:49:24@Jominian @Golden_hamster 問題は・・・ある。 趙雲伝「遷為牙門將軍。先主入蜀,雲留荊州。」 魏延伝「以部曲隨先主入蜀,數有戰功,遷牙門將軍。」 劉備の牙門將の趙雲と、趙雲に代わって劉備の牙門將になった魏延は、劉備に統属する諸牙門將を統括する牙門將軍。
2013-10-19 00:53:46@HAMLABI3594 @Golden_hamster 解釈の違いはしゃーない。俺は、牙門将が沢山いるように読めなかったので、そういう結論にした。何だったら、そっちの解釈も語るよろし。追加するわ
2013-10-19 00:56:56@Jominian @Golden_hamster 根拠はない。使持節護烏桓校尉で幽州刺史の毌丘倹にだって七人の牙門將がいたのだから、使持節左將軍で荊豫益三州牧の劉備にもそれくらいの牙門將はいたはず。
2013-10-19 01:02:16@Jominian @Golden_hamster 牙門將は組織内権限だから、歴史書に書く場合は牙門將じゃなくて○將軍のほうだと思うんだよね。○將軍を持たない牙門將もいただろうし。馮習や高翔や張南などは牙門將だったんじゃないかな(あてずっぽう)
2013-10-19 01:07:34@HAMLABI3594 @Golden_hamster うーん。前提が魏晋の制度というのがなあ。魏晋の制度が蜀でも採用されていたとするならば、まずはそれを示す資料及び解釈が必要で、まず同じ制度ありきでは考えにくいと思うのだ。
2013-10-19 01:10:58