イザヤ・ベンダサンbotまとめ/日本において生存を許されなかった二人の日本人、山県大弐と三島由紀夫

イザヤ・ベンダサン著『日本教について』/実体語と空体語のバランス/二つを論じる前に/31頁以降より抜粋引用
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イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

①それは日本において生存を許されなかった二人の日本人、 山県大弐(やまがただいに)と三島由紀夫氏の著作、 すなわち前者の『柳子(りゅうし)新論』と後者の『檄文』です。<『日本教について――あるユダヤ人への手紙――』

2013-10-26 06:39:51
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

②同時に、この二つへの反論(といっても非常に同情的な反論で、これも一種のバランスですが)、すなわち松宮主鈴(観山。江戸時代の思想家)の手紙と、司馬遼太郎氏の一文を、これと併行しつつ、分析していきたいと思います。

2013-10-26 07:39:55
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

③【二つを論じる前に】『柳子新論』という著作は、日本では既に殆ど忘れられておりますので、恐らく三島由紀夫氏も読んでいないと思います。 もっとも氏の読まれた本を全部調べたわけではないので断定はできませんが『檄文』が『柳子新論』の影響をうけていることは、恐らくないと思います。

2013-10-26 08:40:01
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

④この著作は…「徳川の平和」の後期における天皇中心的正統主義(…多くの人が誤解していますが国家主義とは別です)の先駆ともいうべき著作で、この点「戦後平和」の後期の三島氏と思想的に共通した面があると言えない事はありませんが、そういう観点から両者を比較する事は皮相の見方だと思います。

2013-10-26 09:39:58
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑤私にはこの二人が、むしろ「非日本教徒日本人」に見えますが、これは非常に複雑な問題で「非ユダヤ教徒ユダヤ人」こそ真のユダヤ人であるといった考え方ができるとすれば、この「非日本教徒日本人」こそ真の日本人であるといえますし、その意味でなら、二人が国粋主義者と呼ばれて当然と思います。

2013-10-26 10:40:06
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑥だがそう考えれば、国粋主義者と呼ばれる人こそ「非日本教徒日本人」だといえます。 私はそう考えていますが、ここではこの問題に立ち人らず、二人とも日本人としては例外的な存在だと言うに止めましょう。 二人に共通した特徴は外来の思想を非常に強くかつ純粋な形でうけたという点でしょう。

2013-10-26 11:39:57
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑦だが問題はその受け取り方です。 まず『柳子新論』を取り上げますと、この著者の山県大式は、中国の朱子の哲学の影響を圧倒的にうけた、というのが、日本における定説です。

2013-10-26 12:40:00
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑧しかし朱子は、東アジアのアリストテレス(比較の仕方によってはトマス・アクィナスとも言えるかも知れませんが)とも言うべき人で、宇宙論、物質論、認識論のすべてを包含する大きな哲学的体系を完成した人です。

2013-10-26 13:39:59
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑨…彼以後の東アジアの思想家で、彼の影響をうけなかった人は皆無ですから、山県大弐が強い影響をうけたのも当然です。 だがこの場合、彼だけでなく、他の日本の思想家も実際にはほとんど影響をうけなかった部分があります…。 それは朱子の哲学の基礎となっている宇宙論、物質論、認識論です。

2013-10-26 14:40:00
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑩…朱子の後の哲学者で彼と並び称される王陽明は、まず朱子の「格物論」(物に至る論) の方法論の通りにやって「庭の竹」に至ろうと一週間ほど全力をあげて努力し、とうとうノイローゼになって、ついに断念しました。 そしてこれが、彼の新しい自らの哲学を生み出す一因になったと私は考えます。

2013-10-26 15:39:58
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑪このように中国人は、「対物関係」においてノイローゼになりうる民族ですが、一方日本人は「対人関係」すなわち日本人のいう意味の「人間関係」では絶えずノイローゼになっても、「対物関係」においてノイローゼになるなどということは、空想すら出来ない不思議な民族です。

2013-10-26 16:40:12
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑫ソクラテス以前のギリシャの哲学者たちの努力は、文字通り「無意味な詭弁」として一笑に付され、彼らが言葉によって「物に至ろう」とあらゆる努力をしたなどとは、夢想だにしません。

2013-10-26 17:39:58
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑬従って日本人が「朱子学」や「陽明学」を口にしても、その中には「庭の竹に至る」ためノイローゼにまでなった若き哲学者の面影は皆無です。 この点では、明治以降の西欧文明の移入でも全く同じです。 なぜそうなるか? …今はただ以上の事実を指摘するにとどめましょう。

2013-10-26 18:40:00
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑭従って、山県大弐であれ三島由紀夫氏であれ、上記のような意味では外来の思想をうけておりませんが、これらの哲学者が上記にのべた基本的な哲学をもとにして組み立てた「倫理学」(非常に広い意味の)に、実に強い影響をうけております。

2013-10-26 19:39:59
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑮そしてこの広い意味の倫理学を尺度として日本の社会を測ったとき、この人びとには、日本の社会が全く異常に見えたわけです。 二人には、前述の「天秤の論理」が全く許すべからぎる虚偽に見えてきました。 それは当然の帰結です。

2013-10-26 20:40:00
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑯だが二人は、外来の尺度がその民族の長い歴史という、動かすことの出来ない一種の「メ―トル原器」に基づいていること、 そしてその目盛りが言葉であるとすれば、それをきざんだ物差しは、たとえ各人が自由に使っても、それが手を触れえぬ原器に基づいていること、(続

2013-10-26 21:40:00
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑰続>それは分銅としての尺度でなく、また「天秤」の支点である「人間」はそれとは全く別のもので、その尺度では測りえない事に気づかなかったように思われます。 いや、気づいても意識して目をそらしていたのかも知れません。 以上の事を絶えず考慮しつつ、まず『柳子新論』から始めましょう。

2013-10-26 22:40:07