利根川東遷事業にともなう五霞町と庄和町への文化的影響について
@kous37 なぜ江戸川に面した取水堤を儲けなかったかについての研究はたぶんないんですが、水争いの評定で負けた部落がワリ食った、てことなんだろうと思ってます。さあここで被差別村の話になるわけですが(ドヤ顔w)埼玉の利水を追跡してると明らかに荒れた土地ってあるんですよね。→
2013-11-02 16:45:23@kous37 集中的に調べたのは五霞、妻沼、志木ですがいずれも極めて特殊な堤防で利水をしています。そして低地埼玉では、たとえば釜無川の信玄堤みたいな自然排水は望めない。おおくは人力で汲み出さないと湛水が終わらない。堤ひとつ挟んで部落の明暗が風景的にはっきり別れます。
2013-11-02 16:58:45@kous37 江戸川には五霞を除けば目立った遊水池がなく、ぶっちゃけ埼玉の洪水を放置することで江戸の被害を抑えていたわけですが(笑)、宝珠花は分岐から数えて最初の自然狭窄部にあたり、しょっちゅう水害にさらされてたわけなのに流路開削の許しは長らく出なかった。→
2013-11-02 17:13:18@kous37 その理由として、船橋を掛けた街道機能があったため川幅を広げられなかったのだとぎょうせい発行の庄和町史にはあるんですが、江戸と水戸と会津を結ぶ街道の河岸の町取手市が渡し船でやってこられたことを知ってる身としてはそんな歴史観は信用できない(笑)。→
2013-11-02 17:20:56@kous37 むしろ頻繁する洪水への忍耐を強いられる代わりに経済特区の地位を与えられていた、ていうのが真相ではないかと。先のリンクhttp://t.co/TOE6OwXhXdでもブログ主が宝珠花の妙な豊かさ?に奇異の念を抱いてますが、
2013-11-02 17:30:31@takanoryu 1900-31年には宝珠花銀行というのもあったそうだからねえ。取引相手は舟運業者で野田線の開通によって行き詰まったみたいだけど。
2013-11-02 17:40:13@kous37 一本刀土俵入りや斬られの仙太の舞台になった成金の河岸の町出身者から見ても宝珠花の繁栄はかなり特異に映ります。大凧にしても纏組の祭ってことになってるけどその費用はどこから(汗)。リンク先の下の方に宝珠花神社の浅間山が写真つきで紹介されてますがこれ実は浅間山ではなく、
2013-11-02 17:54:40@kous37 日本一でかい富士塚なのですね。例の町ごと移転したときにだいぶ小さくなって2/3の高さになっちゃったけどそれでも9メートルあるそうで。麓の鳥居の扁額は三代目教主小谷三志が手ずから揮毛してるという激レアもの。カネがうなってる感がはんぱないです。→
2013-11-02 18:14:19@kous37 山口柳井市の蔵町に住んでるとき曳家工事を見たことありますが、あれめちゃくちゃ大変ですよ。それを町並みあげてやっちゃう活力と財力が、実は被災地支援策と裏表の関係になってたんじゃないか、というのが宝珠花に関する拙論の要旨であります。(ほぼ終わり)
2013-11-02 18:32:18@kous37 蛇足。湛水の問題を書き落としました。宝珠花の狭窄部で溢れた水はすぐ南の中川に落ちますが、中川は元荒川水系で江戸川より河床標高が低く、比較的排水が早かったのだろうと思ってます。(ほんとに終わり)
2013-11-02 18:37:09私は小学生のころそういう農業開発みたいな話が好きで、たまたま小学校の図書館にたくさんあったから、通潤橋の話、箱根用水や玉川上水、金原明善の天竜川な治水とか、たくさん読んだんだよね。でも埼玉の話は読んだことない。
2013-11-02 18:55:51それから、同和教育の教科書「にんげん」が何故か好きで、六学年分読破した。夜中にこっそり堰を開けて水を盗むとか、そういう話は読んだけど排水が問題になった話は読んだことない。
2013-11-02 18:59:15@kous37 ご清聴ありがとうございました。(^_^)/ 妻沼の中条堤、志木宗岡の佃堤などちょいと検索していただければ、沼地化政策に泣いた被差別村の感じはわりと分かるかと思います。どの場合もなかなかに華々しい灌漑政策の裏舞台みたいな感じになっとります。
2013-11-02 19:21:05@kous37 栃木のことはとんと知らんのですが(爆)流路はすぐ変わりますのでね。根利川・吾妻川・渡良瀬川が旧利根川、鬼怒川・小貝川・常陸川に繋いだのが新利根川という理解でだいたいいいと思います。
2013-11-02 19:24:59