現代日本の都市部におけるスペクタクルの不可能性について

都市近郊の片田舎で野外劇スペクタクルを続けている者の、もどかし目のつぶやきです(苦笑)
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@takanoryu

角本さんの(ていうか僕的には嵯峨ふみかの)イオネスコ見て帰るところ。ビオメハニカだった。 #イオネスコ

2013-11-07 21:35:11
@takanoryu

1900年発西洋近代劇三大潮流のうちビオメハニカは近年日本で定着の様相を見せ始めている。イエーツ民俗劇派の僕としては自分の芝居がどうビオメハニカと距離を保つかってとても大事なんだよな、てことを改めて思った。 #イオネスコ

2013-11-07 21:39:28
@takanoryu

メイエルホリトがどこまで考え抜いていたか分からないが、スタニスラフスキーシステムが知と熱を分けて考えるのに対しビオメハニカは同平面で知と熱を同時に演出できてしまう。このことは危険だ、と僕は思っている。 #イオネスコ

2013-11-07 21:42:32
@takanoryu

熱に裏づけられた知、ならまだいいが、知に裏づけられた熱、という無理筋の演出も容易に企図できてしまうのがビオメハニカの落とし穴。オープンであるがゆえに退廃に対してもオープン。 #イオネスコ

2013-11-07 21:47:33
@takanoryu

知に傾けば客を知で教育しなきゃならなくなり、ほんらいサーカスみたいな単純にエンタメなもんをベースに考案されたであろうメソッドの残念な使い方、みたいになっちゃう。日本の場合万有引力以降この傾向は強まったような(汗)。 #イオネスコ

2013-11-07 21:56:00
@takanoryu

角本さんの場合パブリックコメントとして公演を置いていくのか極私的イベントなのかごっちゃになってるところが実は見所だと思うんだけど(笑)、語り筋がいかにも知者なのは弱い点だと思う。アッホな芝居がこのグループからどんだけ出てくるのかという(無理言うなw)。 #イオネスコ

2013-11-07 22:01:28
@takanoryu

ざっと言うとイオネスコじたい、言葉の念がそう強い作者ではない(イエーツはもとよりベケットと較べても明らか)。だので解体再構築により客に内容が伝わらなくなるリスクは大きいなぁと思った。 #イオネスコ

2013-11-07 22:04:27
@takanoryu

内容が失われてもむろん音韻的美しさや発声や動作の美しさは残るのではあるけれども、それらを再び内容の美しさと出会わせるところまで僕なら演出でやりたいし、そのためにビオメハニカは良手とは思えないなぁ。 #イオネスコ

2013-11-07 22:07:06
@takanoryu

メイエルホリトが俳優(の生活)の経験則を排除してるとは思わないけど、排除してもやれちゃう。ここが問題。経験則第一主義のイエーツ民俗劇との決定的な違い。俳優が交換可能の存在になりかねなく、そうならないための演出家のセンスが問われることになる。 #イオネスコ

2013-11-07 22:11:23
@takanoryu

来年嵯峨ふみかを演出するにあたり僕は彼女への聞き書きから始めるしかないだろうと思っている。役柄よりも物語よりも先に俳優の生活があることを明確にするにはメイエルホリトよりもイエーツが向いている。 #イオネスコ

2013-11-07 22:14:01
@takanoryu

んで「野良犬」で西洋近代劇のシナリオを参考にするとしたら少なくともイオネスコではないだろうな、とは思う。なんだろね。ストリンドベリならありうるかなぁ。 #イオネスコ

2013-11-07 22:16:44
@takanoryu

「野良犬」はふみかへの書き下ろしなんで、ギラつく熱をムンムンに湛えた芝居にしたいと思っています。とりあえず公演終わったら会わなきゃ。 #イオネスコ (一応終わり)

2013-11-07 22:19:02
片山 幹生 @camin

古典戯曲を読む会の後の懇親会では、青年団『もう風も吹かない』の演出における非リアリズムが話題になって、いちいち納得してしまった。自分の見方の甘さ、平田の戦略に飲み込まれてしまっていることを認識した。いくらなんでも手を振り上げて、振り付けて、踊り歌ったりはしないよな。

2013-11-17 02:01:08
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

.@camin あれ、あの箱庭の中のすっごいリアルを実現していて作品外の現実とうまく距離をとれていたと思いました。その意味であれこそがあるべきリアリズムだと。

2013-11-17 02:05:47
片山 幹生 @camin

@dUOMOexmachina そうですか。私、斜め上に上下させる手の動きとそれに連動する視線が何か。研修所という閉鎖環境であっても、あそこまで心を互いに開くことは無理があるように思ってしまうのです。セミ・プライベート空間の演劇的虚構性が見えてしまう。

2013-11-17 02:26:21
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

@camin セミ・プライベートという概念で世界の一部を分節すること自体が虚構だと思いますので虚構性は当然だと思います。その上で、そういう切り刻み方をした結果の現実の総体とは違う世界においてどのような生態系がつくられうるか、水族館の魚たちが海の魚とは違う類の特異性がみれると思う。

2013-11-17 02:31:36
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

@camin で、そもそも世界の総体を総体として眺めることは無理な時に分節された一部において特異な生態系があろうとそこから総体を類推するしかすべはない。その時にどれを分節してくるとまだ総体に接近しやすいかという選択として平田の選択は他のものよりも「リアル」と言ってもよいのかも。

2013-11-17 02:34:26
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

@camin あの踊りを拾ってくる以前に私は、平田作品で人が笑うといつもそのつくり笑いの冷たさにああこれは虚構だよなという確認をうながされます。それと同様の距離をあの踊りを目にした時に感じました。長くなりましたが、こんなことを考えております。

2013-11-17 02:36:32
片山 幹生 @camin

『もう風も吹かない』のなかで、協力隊研修生の面々が歌い、踊る場面に感じた気恥ずかしさ、いたたまれなさを、知らないうちにOKとして受け入れていたことに気づく。妊娠したことを表明する女性の描き方に典型的に見られる、平田の女性人物像の平板さの指摘にも納得。

2013-11-17 02:04:48
片山 幹生 @camin

平田オリザの戯曲における女性の扱い方がぞんざいで、その視点はしばしば意地悪、類型的であることは私も思ったことはあるけれど、いつのまにかそれを受け入れていた。平田オリザの根本には女性嫌悪あるいは無関心があるのでは、という話はこれまでにどこかで読んだか、話題にした記憶がある。

2013-11-17 02:07:26
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

平田オリザ作品において女性像が平板という見方があるのかもしれないがそれ以前に、平田作品には人間は描かれていないからこそある社会のリアリティが描けていると感じている。ミクロ偏重な経済学へのマルクス主義からの批判のような劇作。続

2013-11-17 02:09:59
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

承前。その社会描写は、どうしても平田本人以外の個を構想できないという欠損の代償と考えるが、それはだからといって否定されるべきものではなく、その欠損によってある体制の描写を獲得している。そこを価値と見なした上で、そこ以外に演劇の価値があると思う私にはあの作品群はおもしろくない。

2013-11-17 02:12:35
d’UOMO ex machina @dUOMOexmachina

Karol Horákの劇作について、いろいろ考え続ける。翻訳をはじめる前に、原語のままで上演したくてしかたがない。それとなんとなく平田劇作の仏語翻訳を上演するって企画をこのところやってみたくなっている。私の中ではマルクス主義の発展的な継承というテーマで二つは共通している。

2013-11-17 02:19:03
@takanoryu

妻とえりさんと3人で育児についてケラケラ笑いながら話して寝て起きたら片山さんと角本さんがオリザの女性観について話してた。なんだかなあと思った。他人の戯曲作法とか俺どうでもいいんだなきっと。育児とか置いてけぼりにして演出もできないし。芝居はただの生活ですわ。ええ。

2013-11-17 04:05:42
@takanoryu

バルンくん、ていう3歳児くらい向けの自動車レースの絵本がありまして、これが家庭に持ち込まれたときのグルーヴ感たらそこらの演劇でやれるようなレベルじゃなかったのね。ストックカーなんで公道走れて、車庫からスタートフラグ振られるとこまでを淡々と追いかける。生活者が追える文芸。すてき。

2013-11-17 04:11:14