現代日本の都市部におけるスペクタクルの不可能性について

都市近郊の片田舎で野外劇スペクタクルを続けている者の、もどかし目のつぶやきです(苦笑)
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@takanoryu

僕は「演劇は虚構だから綿密に虚構を構成しよう」という「反論しがたい正論」には乗らないように気をつけている。どんなもんでもある意味虚構じゃん、というロジックにつき合うのがめんどいんで。生活は虚構ではない、という分節化されない原則を受け入れた上で、ならば芝居だって虚構じゃねえよ、と。

2013-11-17 04:16:28
@takanoryu

俺の芝居は虚構じゃねえぞ。

2013-11-17 04:17:01
@takanoryu

氾濫原の廃校の庭に一年かけて子どもの手で舞台セットを建築して観客ともどもごった煮になって上演した野外劇「狼森と笊森、盗森」(1988)には、参加するあらゆる立場のひとの「生活の更新」が第一義の課題として置かれていた。スコップと荒縄を日常的に手渡すことで「観客」の特権を無効化する。

2013-11-17 04:26:32
@takanoryu

観客特権を許さない市民の会(←ォィ)

2013-11-17 04:27:15
@takanoryu

ブレヒトが「リンドバーグの飛行」と「処置」の上演条件において「観客に見せることを禁じる」としたのは高校生の俺にはけっこうな驚きだったが、いま俺がやってるのはブレヒト教育劇の考えにわりかし近い。寺山が観客の解体を謳いながら結局ファンを増やすことしかできなかった末路に苛立つ身として。

2013-11-17 04:32:56
@takanoryu

ハプニング演劇のモデルとして感心するのはタデウシュ・カントールの「手紙」。パレードという退屈な芸を街路の興奮までつなげられたのは、ヨーロッパの「市民革命の記憶」みたいなもんにうまく接続させたからだと思う。寺山のノックとかソロモンとかには日本の「街路の記憶」との接点がなかったよね。

2013-11-17 04:38:55
@takanoryu

日本で狂騒の街路劇をやるとしたら時衆とか一向一揆とかええじゃないかとかの記憶に繋げるしかないだろうね。そこでは勝利への確信よりもヤケクソみたいなもんが前面に出るだろう。三好十郎「斬られの仙太」取手宿の場や岡本喜八「ジャズ大名」の山場でええじゃないかが現れるのは勘がいいと思う。

2013-11-17 04:45:40
@takanoryu

5月の在特会大宮街宣にカウンターしきれなかったのは、奴らが基本的に被害妄想からやけのヤンパチでええじゃないか的パレード芸を編み出した、という草の根性を舐めてたからでして。現場で僕のタックルを見てた名倉とヨクナとえりさんはどう思ったかね、あの力関係を。サヨクじゃあれには勝てないぜ。

2013-11-17 04:51:03
@takanoryu

上野の辻芸は70年代初頭、新宿JRA前のは80年代まで残ってたが、あれは局地的に確保されたアジールだったんで、市民の生活の更新につながるようなもんでは実はなかった。やはり街路劇で革命的成果を上げるのは在特会的ヤケクソ性をもってしか不可能なのかなあとつらつら思う。

2013-11-17 05:01:52
@takanoryu

一方で都市での成果を諦めた共産党崩れやアングラ崩れが30年経った今では田舎に帰って公共施設をだまくらかしたり掘っ建て小屋を整備したりしてイベント屋になっており、かつ高い確率で「田楽」を謳っているという事実にサヨクと演劇人士はもうちょっと目を向けろよ、と思う。

2013-11-17 05:07:38
@takanoryu

辻芸は滅んで再興の目はないが、田楽には可能性がある。芝居と音楽がむすぶ可能性もある。切腹ピストルズや道東管隊には田舎町みたいなもんが見えてる。な?劇場を棄ててカフェや街路に出たってダメなのは70年代にもう分かってたことなんだよ。だから演劇は遅れてるっつーんだよ。分からんかなあ。

2013-11-17 05:16:39
@takanoryu

基本的に「手遅れな芸」として機能してきてしまったフォークソングとか中学合唱コンクールとか高校演劇とかの仲間なんだよな、日本の都市演劇は。都市という環境に特殊化することで関東大震災以来細々と生き延びてきた。それは土方与志の望んだ姿ではあるかも知れないが、もう変われよ、と思う。

2013-11-17 05:21:42
@takanoryu

築地小劇場はスタニスラフスキーとビオメハニカを定着させることに貢献したが、あれどっちも、呵責なき分節化をメソッドの根本に置いてる。ピーター・ブルックは能の稽古を見て「あれは分節化をともなわない芸だ」と喝破している。部分的に取り出すことができない生活としての芸の存在に彼は気づいた。

2013-11-17 05:30:58
@takanoryu

カントールが街路に持ち出した長さ12メートルの封筒(笑)が市民を興奮させたのは、あれの見てくれが共産党政権下のポーランドにおいて端的に「旗」だったからだよね。革命政権下でなお革命を語りうる市民、というビジョンを、老郵便配達人たちが物理的に担いで街路を練り歩く。生活と演劇の一致。

2013-11-17 05:35:43
@takanoryu

ミロシェヴィッチ政権が倒れたときUPIが配信した画像には、古い銀行の窓によじ登って巨大な独立旗を振る市民たちが写されていた。んだが、こいつらレジスタンスとかじゃなくてただの通行人だよな、ていうのが一番の衝撃だったな。僕らは銀行の窓やバスの屋根から旗を振るような身体を持ってない。

2013-11-17 05:47:29
@takanoryu

でもたとえば僕らは、褌一丁で角力をとる芸なら受け入れられる(短距離男道ミサイル)し、「流れゆく大根の葉の早さかな」(虚子)という句がどんな風景をもたらすかは理解できる。切腹ピストルズは戦略としての「都市の農村化」をはっきり表明している。身体性とはいかに分節化しないか、で決まる。

2013-11-17 05:53:07
@takanoryu

スペクタクルなるものが時代と環境の大きなうねりの体現を渇望する芸だとするなら、日本の都市部でそれをやるのはもはや不可能である、ということは強く主張しておきたい。(いちおう終わり)

2013-11-17 05:56:04
@takanoryu

築地の魚河岸が平気で解体されようとしてるような時代に東京で綿密な芝居してなんの意味があるのか本気で分かりません。(ほんとに終わり)

2013-11-17 06:04:33
@takanoryu

http://t.co/Ws7u3y3P9X 【参考】タデウシュ・カントール&クリコット2「ハプニング・手紙」(ワルシャワ、1967)

2013-11-17 07:00:52