「輪廻」と「無我」は矛盾するのか? #仏教

仏教で説かれる輪廻と無我は矛盾するのではないか? 整合性が取れないのではないか? というよくある疑問への答え。
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佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 大乗仏教では大乗涅槃経のように如来を「我の獲得者」として捉える=ウパニシャッドの我説に接近する表現も現れます。しかし釈尊は、輪廻は五蘊相続であり、五蘊が無常・ 苦・無我であると如実知見すれば、五蘊において厭離し、……解脱すると説いたのです。

2013-11-25 17:10:24
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 秋月師のような輪廻否定説は禅の伝統では根強いですね。原始仏教でもある種の禅定に入った修行者が偏った知見に陥り断滅論に固執すると説いています(パーリ長部1梵網経)。おなじ禅宗でも、道元禅師は『正法眼蔵』後期の著述などで、輪廻否定の禅思想を厳しく批判しました。

2013-11-25 17:15:02
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 原始仏教の覚りのプロセスでは、預流果という最初の覚りに達する際に脱する束縛の一つに「有身見」があります。これは我論(霊魂説)への執着のことで、私=存在の主体とは認識プロセスによって捏造された錯覚であると納得することです。

2013-11-25 17:23:02
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 本当のところは、いくら偉大な仏教学者であっても、自分が覚っていない限り、うっかり私=存在の主体を前提として仏説を解釈してしまいがちなのです。常見か断見かという不毛な論争に陥ってしまう。初期仏典に即して考えれば、この危険から逃れられます。

2013-11-25 17:29:12
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact そういう研究は地味なのであまり顧みられませんが、常見・断見に陥らず、伝統的な仏説(初期仏典に説かれた釈尊の教え)よりも上手に無我と輪廻と解脱を説明した研究というのはこれまで無かったし、ブッダが正等覚者であるならば、これからも無いはずなのです。

2013-11-25 17:33:49
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita 「覚り」の内容が覚った人しかわからないというのは、同意します。でも「私という主体」を否定すると、例えば「naagitaさんはどうしてツイートできるのか?」という疑問が出て来ると思うのです。「ツイートをしているのは誰の意思なのか?」という疑問が出てきます。 #仏教

2013-11-25 17:59:55
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 私というのは因縁により生滅変化する五蘊(色受想行識)という現象に付けたラベルですね。六処(眼耳鼻舌身意)を通じて認識することで「私がいる」という強固な実感が定着します。このシステム=輪廻です。仏教では修行を通してこの強固な実感を破るのです。

2013-11-25 18:24:09
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact OokuboTactさんが「私という主体」の在処に拘ってしまうのは当然です。そういう思考の流れ・思考パターンそのものが輪廻システムの一部なのです。それを破ろうというのですから、仏道って、けっこう大変ですw

2013-11-25 18:28:11
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita ロボットと人間の違いは何でしょうか? 人間は自分の意思で動いているのではないのでしょうか? 例えばツイートする時に、ツイートの内容を「考える主体」が存在しないのでしょうか? 「私という主体」を感じ無いとすれば、「誰かに操られている」と思うのでしょうか? #仏教

2013-11-25 18:29:15
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 覚りの第一段階である預流果で、有身見(我論への執着)が消えるというのも、そこが仏教を本当に理解する入り口だからです。「私という主体」の在処に拘ってしまう、当たり前の思考の流れ・思考パターンがそこで因縁説による思考の流れ・思考パターンへと切り替わるのです。

2013-11-25 18:29:33
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita  説明不可能なら説明不可能で構いません。「私とは何か?」というのは現代哲学の流行のテーマで、難しい議論が山のようにありますので。 #仏教

2013-11-25 18:31:58
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact ロボットは物理的なエネルギー(色蘊)のみで構成されるので、輪廻しないと思います。生命はたとえ色蘊(肉体)が壊れても五蘊の相続は終わらないので、すぐに次の肉体(動物や餓鬼や神々などを含む)を構成します。主体は無くてもシステムとしてそのように続くとされます。

2013-11-25 18:36:00
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita ロボットはプログラムで動きます。プログラムは主体と言えますか?

2013-11-25 18:40:07
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact プログラムはある限定した目的のために「つくられたもの」であって、もろもろの条件が揃わないと働かない。”主体”とは言えないでしょうね。

2013-11-25 18:49:50
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita  それでは人間には主体は無いのでしょうか? #仏教

2013-11-25 18:54:22
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 人間に限らず一切生命は色・受・想・行・識の五蘊で構成されています。まとめると名・色です。六処で起こる認識が引き起こす私=主体=我が「有る」という錯覚をエネルギー源にして輪廻しています。錯覚に過ぎない「主体」を求めてしがみつこうと足掻く営みが即ち「生」です。

2013-11-25 20:01:28
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita 錯覚であろうと無かろうと「主体」はあるのではないでしょうか? また構成要素を説明しても「主体の存在」を否定したことにはなりません。例えば岸田秀さんの「唯幻論」がありますが、主体は否定されていません。参考『仏教と精神分析』三枝充悳&岸田秀 :著) #仏教

2013-11-25 20:15:15
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 主体を認めたがるのは人情(生命の感情=渇愛)ですから仕方無いですけど、主体を設定しようとする思考(志向)そのものが輪廻に絡め取られることだと思います。なかなか理解が難しいところですが、ここが仏道の初門と言えるところなんですね。

2013-11-25 21:42:33
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita それでは宮元啓一さんや中村元さんは仏道の初門をくぐっていないのですか? #仏教

2013-11-25 21:54:12
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 他の門をくぐっちゃってるような気がします。^_^;

2013-11-25 21:55:06
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita もし主体が無いなら、どうやって選択するのですか? 例えば自動販売機で飲み物を買う時に選択をしないのですか? 選択をするなら意思があり、主体があるという証拠になると思います。 #仏教

2013-11-25 21:58:57
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact とはいえ偉大な学者であることは間違いないですし、学恩に浴してもいるのですが。中村~宮元的な仏教観もラーダークリシュナンはじめ支持者が根強くいます。ただ伝統的な仏教から観ると的を外している、ということです。(宮元氏は仏教ではなくアニミズム信者でしたよね?)

2013-11-25 21:59:55
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact 納得できないのはよく分かります。諸々の研究者がどういう見解を持っていても、伝統的な仏教では主体は立てないんです。主体を求めるのは俗世間の価値観で、それを否定するのは仏祖の教えです。どちらを選ぶかは各人の自由ですが、俗人の好みで仏教を改変するのはダメです。

2013-11-25 22:06:28
OokuboTact おおくぼ中二病中年 @OokuboTact

@naagita 私は仏教の説の説明を聞いているのではなく、「主体が無いという証拠」を教えて欲しいと言っているのです。例えば仏教を知らないキリスト教徒に説明を求められたと仮定して、説明できますか? #仏教

2013-11-25 22:09:22
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@OokuboTact え?仏教の話をしてたんじゃないですか? 証拠もなにも、主体が無い証拠しか見つからないと思いますけど……。自も他も、すべて因縁によって五蘊が流れているだけでしょう。「私」という実感が認識プロセスで起こるだけです。一切の現象は無常であり、無我です。

2013-11-25 22:17:57