- Hikasuke333
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長篠戦における鉄砲について。 「敵が近寄せたならば、最初の一斉射撃が命ぜられただけで、後は各自のペースで打たせれば、自然に兵士の間での個人差による遅速が現れて、結果的には絶え間のない弾幕が張られていることになる」 所荘吉「戦国期における銃砲戦の展開」『軍事史学』(1977.03)
2013-11-01 21:59:50清正家の故老の話に、「乗馬襲撃は厚き備(そなえ)に対してすべし、薄き備に突入してしまえば必ず痛い目を観る」とある。思うに、「陣内に容れ、隊内に隊を容れ、人間に人を容れ」たる備のことを薄き備というのであろう。備に空処あるゆえ馬は必ず空処を行く。(続)
2013-10-31 23:45:19乗馬襲撃(馬入)はもともと人を倒すためであるのに、その空処に突入してしまえば敵を当て倒すことができない。そうなれば乗馬襲撃する意味がない。左右から敵が打つに便利であるゆえ、必ず討ち死にしてしまう。(続)
2013-10-31 23:50:45厚き備とは、混み合って統制のきかない(法なき)備である。そのような備は空処なきゆえ、馬は人を当て倒す。人と人とが押し合って身動きがとれない状態であるから、崩壊する。 荻生徂徠『けん録』
2013-10-31 23:58:12私の祖父母は氏康の士大将尾崎常陸という者のむすめである。寛永のころまで生きていて常に言っていたことがある。「昔は馬鎧が武士の家には必ずあったのに、いまは誰も持っていない」と。乗馬襲撃(馬入)は関東の長技であったが、いまの時代には断ち失せて諸軍学にも記載がない。(続)
2013-11-01 00:24:18不完全であるとしか言いようがない。乗馬襲撃を止めるには土壁を作り柵を二重三重にそなえ、場合によっては槍柵(槍衾?)をもって止めなければならない。 荻生徂徠『けん録』
2013-11-01 00:30:07参謀本部編『日本古戦法』という本がある。江戸時代の軍学から現実的な軍制をピックアップしてる。荻生徂徠に同じ。近代デジタルライブラリーで閲覧可。
2013-11-01 02:06:12戦国時代の用兵研究は夾雑物を取り除こうと江戸時代の軍学を退けることからやっていても、結局そこに回帰しそうな気がする。しかし、どう回帰するかが重要かもしれない。
2013-11-01 01:20:09@Hikasuke333 当時から胡散臭く見られていたのでしょうかね。成立当時から関係軍学者の言動が心許ないと言われていたようですし。
2013-11-01 02:58:34荻生徂徠の軍学研究でしばしば言及される謙信流というのは、宇佐美一派が大系した近世越後流兵学のことに思えるが、あるいは米沢や古老に伝わる伝承や記録を含む総称である可能性も疑ってみたいし、そもそも宇佐美系にしても根っこから残らず創作かどうかもまだ断定はできない。
2013-11-03 01:29:04戦法(現代でいう戦術以下のレベルだろう)は戦国時代、将士共に武勇にて戦場に慣れていたため、戦法を自然と使い覚えていたので、またその人の得手不得手があって自分の使いなれたやり方で働いていたので、時が移って平和になるとその手法は絶え失せた。 荻生徂徠『けん録』第十三
2013-12-06 19:57:22行軍は4時から20時の間のうちで、一日約24キロ。4キロごとに休憩し、12キロになったら兵糧を使うべし。 荻生徂徠『けん録』第六 行軍 おそらく中国書から採ったのだと思うが、一日行程が近代以降の軍隊と変わらないのは興味深い。
2013-12-06 20:12:30来年の大河に向けて、戦国の軍師を取り扱う本が増えてきましたが、宇佐美定満はもうほとんど取り上げられなくなりました。実積を肯定的に認める人がいなくなりましたからね。かわりに上杉代表選手として直江兼続が顔を出しています。軍師……なのか?
2013-12-05 22:49:26@naishimasahiko 宇佐美は山本勘助と同じような扱いですね。実在はしているがよくどのような人だったかというのがよくわからないという部分においては似てますね。
2013-12-05 23:16:31@yanagi1981 評価が極端ですからね。宇佐美定満は、山本勘助よりは文書史料に恵まれているはずなのですが、捏造された軍師伝説へのトラウマがあってか、正面から向き合う人があまりいませんね。
2013-12-05 23:30:00