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【三国志】益州攻略~劉備の益州統治

劉備の益州攻略戦と、その後の統治について少しだけ
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建安十七年から建安十九年の益州攻略戦について

Jominian @Jominian

法正が劉璋に手紙を送ったのは、雒の包囲に及んだ頃である。その時点で、諸葛亮らは江州を破り、巴西を侵し、徳陽と資中を進み成都に迫っていた。これは、諸葛亮らの作戦の半ばも過ぎた状況である。つまり、諸葛亮らは劉備が雒に至る前から益州に入っていたということだ

2013-12-07 19:21:58
陸合 @Rieg__Goh

@Jominian 雒が粘るから諸葛亮らを増援に呼んだと以前は思ってましたが、書き並べられると全然違いますね。

2013-12-07 19:28:06
松浦 桀 @HAMLABI3594

@Jominian 文中で法正が「諸葛亮がくるぜ!」と書かずに「張飛がくるぜ!」と書いたのは、本当は諸葛亮が司令官だけど張飛の名前を出したほうが効果的だからという法正の判断なんかな?

2013-12-07 19:29:27
Jominian @Jominian

@Rieg__Goh それと、この手紙から趙雲のルートが分かりますね

2013-12-07 19:30:07
陸合 @Rieg__Goh

@Jominian なんと、そうなんですか。それは読み進めるのが楽しみですね。

2013-12-07 19:34:18
Jominian @Jominian

@HAMLABI3594 張飛の武名は、諸葛亮とは比べるべくもないですから、劉璋をビビらす手段としての張飛の名前でしょう。

2013-12-07 19:31:00
松浦 桀 @HAMLABI3594

@Jominian やっぱりそうか。ここで張飛と書いてあるからといって造園軍の司令官を張飛とする理由にはならないと。

2013-12-07 19:33:45
Jominian @Jominian

@HAMLABI3594 っても、この時の司令官の指定は、明確な制度によるものと言うより、劉備の言いつけ程度じゃないかと。将軍ということで言えば、三人とも同格だろうし

2013-12-07 19:37:11
松浦 桀 @HAMLABI3594

@Jominian んー?制度には依らないが、実質的な司令官は張飛ではなく諸葛亮ってことだよね?

2013-12-07 19:47:49
Jominian @Jominian

@HAMLABI3594 諸葛亮だと思うけど、趙雲伝のちょろっとした記述しかないので、はっきりとは言えないとは思う

2013-12-07 19:57:19
Jominian @Jominian

法正は、張飛の軍が兵を分けて徳陽と資中を平らげたと書く。また、諸葛亮が徳陽を平定したことは華陽国志にある。趙雲は犍為を平定したともある。徳陽から資中へ西に進むのには、交通線を涪水から雒水に移す必要がある。趙雲は、雒水下流の江陽を平定した。諸葛亮の連絡線を確保したということだ

2013-12-08 00:11:32
Jominian @Jominian

三国志には趙雲が江陽を平定したことしか書かれておらず、法正も南安や僰道には言及していない。その為、趙雲は江陽から北上し資中に向かったと見なすこともできる。しかし、それでは諸葛亮は徳陽より西進して五城から成都出る道を通る事となり、新都より成都へ出る趙雲と近くなる。戦略的意義が薄れる

2013-12-08 00:47:06
Jominian @Jominian

諸葛亮がなぜ徳陽からわざわざ資中に出たのかというと、徳陽から五城へ出るのはもともと張飛の使うルートだからだろう。趙雲が犍為より、諸葛亮が雒水より、張飛が五城より成都を突くつもりだったのだ。それが、諸葛亮が張飛の露払いをやったのは、状況が変わり、張飛がまず巴西にいく必要が出たからだ

2013-12-08 00:54:38
Jominian @Jominian

巴西で霍峻が窮地に陥っていたため、張飛は予定を変更して巴西の救援に向かった。そのため、徳陽には代わりに諸葛亮が向かった。張裔撃破の主体が張飛だったり諸葛亮だったりまちまちな記述なのは、その辺が関係しているのだろう。

2013-12-08 00:59:03
Jominian @Jominian

張飛が巴西に向かったことにより、諸葛亮は徳陽に向かうことになった。そうでなければ、諸葛亮は真っ直ぐに資中へ向かったはずだ。つまり、江陽は諸葛亮と趙雲で平定する予定だった。それを趙雲一人で任され、且つ、予定通り犍為平定をなした趙雲は、実力を見込まれ、きっちり仕事を果たしたということ

2013-12-08 01:03:17
Jominian @Jominian

劉備が益州を攻めた頃、江陽は郡として太守が置かれていた。広漢の成存という人が太守だった。趙雲が江陽と犍為を平定したのなら、彼は二郡を平定したことになる。単純に武功の数でしか将の軽重を計れない人でも、趙雲は評価するべきではないか?

2013-12-08 11:49:52
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

成存について任乃強の注 成存は二千石の高官にまでのぼり華陽国志の作者に名前を知られていたのに同書の広漢士女目録に収録されていない。おそらく反乱に参加したために廃されたからだろう。華陽国志作者は賈龍とか趙イの乱参加者を目録にいれてない。成存は趙イの乱に参加し敗北し程畿と代えられた

2013-12-08 12:18:53
Jominian @Jominian

@my_birthday0128 華陽国志の江陽郡のとこに書いてあるで!

2013-12-08 12:07:36
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

@Jominian 今見てました!任乃強の注に、建安十八年とあるのは建安八年の間違いで、劉備入植時は程畿が太守だったんではないかと書いてあります。その上、成存が華陽国志の広漢士女目録にいないのは、何らかの反乱に参加したからじゃないかとかテキトーなこと言ってます

2013-12-08 12:14:57
Jominian @Jominian

@my_birthday0128 程畿の存在なんてすっかり忘れてたわ。十八年に慌てて郡を置いたのかと思ったわ。

2013-12-08 14:32:34
Jominian @Jominian

劉備は、益州攻略の時の後詰の動きと、漢中攻略の時の動きとで、戦い方が何か違うような気がしたので、曹操の指揮した戦いを頭に思い浮かべてみた。曹操は、よく準備された作戦で戦うというのがない気がする。状況に対応することしかしていない。それを余儀なくされる環境だったのかもしれないが。

2013-12-09 08:02:46
Jominian @Jominian

諸葛亮も姜維も、その戦い方の根底の部分は、北伐を通して変わっていない。劉備の益州攻略戦も、全体としては劉備の戦い方である。具体的には、戦場を引っ掻き回して生じた敵の隙を突くもの。後詰も引っ掻き回す策。しかし後詰は、軍をじっくりと進め、確実に包囲を強めていく戦い方で、劉備に合わない

2013-12-09 08:17:19
Jominian @Jominian

益州攻略における後詰の戦い方は、諸葛亮の戦い方だったりしないだろうか?

2013-12-09 08:28:51
Jominian @Jominian

益州攻略戦で、張飛と諸葛亮のとったであろう経路は、成都西方の山を越える道で、劉璋の動き方によっては、かなりの抵抗を受けることが予想される道。趙雲のとったであろう経路は、劉璋が切羽詰まって逃げ出す時に使うであろう道。どちらがより重要だろうか?

2013-12-10 23:01:29
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