【三国志】益州攻略~劉備の益州統治

劉備の益州攻略戦と、その後の統治について少しだけ
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yunishio @yunishio

@Jominian 越巂に逃げるというのは初耳ですけど、そうすると南中の豪族と関係が深かったのかな。孫呉と通謀していた雍闓らとのつながりが疑われますね。しかし本人は荊州人っぽい印象。

2013-12-13 08:14:26
Jominian @Jominian

@yunishio 越嶲云々は楊洪伝にあったような。或いは黄権の一族で、黄権のお陰でお目こぼしされてたのが、黄権の魏への降伏で不安になって反乱したとかもあり得るかもしれません

2013-12-13 08:26:14
Jominian @Jominian

益州太守正昂とは何者なのか?

2013-12-13 21:10:48
Jominian @Jominian

蜀の南中支配は、劉備の頃から失敗している。鄧方は賞賛されてはいるが、高定や雍闓の反乱に太刀打ちできてはいなかった。益州平定当初の南中へは、主として荊州の人間が派遣され、顔ぶれからは諸葛亮の意思が感じられる。その方針は失敗し、高定らの跋扈が始まる。

2013-12-13 21:41:50
Jominian @Jominian

荊州人の派遣による南中統治に失敗した劉備と諸葛亮は、益州人による南中統治の推進へと方針を切り替えた。その端緒とも言うべきが、張裔の派遣と、その後に続く李恢の南中都督就任である。これ以後、南中諸郡の太守は益州人が選ばれることになる。馬謖の心攻発言も、当初の失敗を受けてのものだろう

2013-12-13 21:45:21
Jominian @Jominian

荊州人の登用で失敗した、当初の南中統治計画は、或いは馬謖の発案だったのかもしれない。劉備は、馬謖と諸葛亮によって提示された案に従ったことで南中の離反を招いたため、馬謖を口だけの男と評するに至ったのではないだろうか?しかし、諸葛亮は馬謖を評価し、二人で南中統治計画を再度練り上げたと

2013-12-13 21:49:53
Jominian @Jominian

荊州人、特に劉備が荊州から連れて来た人間中心で行われて失敗した南中統治だが、太守を益州人に代えても一向に成功する兆しは見えなかった。南中が安定するには、劉備が益州を平定してから数十年の時が必要だった。諸葛亮の南征を起点として、少しずつ安定させていったのだろう。

2013-12-13 23:25:50
Jominian @Jominian

おまけ。ざっとまとめた南中諸郡の太守。益州平定直後頃 http://t.co/FHJMag8URC

2013-12-13 23:26:30
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Jominian @Jominian

華陽国志によれば、永昌郡は章武元年頃には太守がいなかったという。恐らく、それ以前も劉備らは太守を置けなかったのだろう。永昌に太守が置かれるのは、諸葛亮が南征を行ってからである。

2013-12-13 23:28:26
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