南中統治
益州平定後に、劉備が南中各郡の太守とした人物は、馬謖と向朗と鄧方と張裔。この内、張裔だけが蜀の人で、馬謖と向朗は諸葛亮と仲がよく、鄧方は南郡の人。彼らの内、鄧方が選ばれて庲降都督となっている。南中各郡の太守任命は、都督選抜の試験の意味もあり、人選は諸葛亮の意思が強く働いたかも
2013-12-13 00:30:17張裔も馬謖も向朗も、諸葛亮との仲の良さを示す逸話があるわけで、鄧方も同じだったと見る方が自然だな。南中経営は諸葛亮の悲願であり、劉備が彼らを南中に派遣したのも、諸葛亮の要請に応えるものだったのかもしれない。劉備死後南中が不穏になったのも、その諸葛亮の考えを皆知っていたからだろう
2013-12-13 00:40:05南中経営も諸葛亮の当初のプランだったとすると、またもや諸葛亮の存在感が増してしまうな。南中攻略を馬謖と練っていたのも、遙か昔からなんじゃないか?
2013-12-13 00:50:25@Golden_hamster 南中含めて益州ですからね。天下三分の計の中に、書かれてはいなくても当然のごとく南中支配も組み込まれていたでしょう。
2013-12-13 00:56:37@Jominian 鄧方は初めて見る名前で、南陽郡の人かと思って読み進めましたが、南郡の人なんですね。南陽郡から分かれた人なのかなとか思いたくなります。
2013-12-13 00:57:36@Rieg__Goh まあ、南郡っていっても臨沮の方まで南郡ですし。それに、昔の分け方なら襄陽も南郡ですからね。鄧方も襄陽出身だったのかもしれない
2013-12-13 01:23:04@Rieg__Goh 蜀書で南郡の人とされているのは、董允や閻宇、霍峻辺りですね。枝江の人が多いように思えます。鄧方がどこかはやっぱり分かりませんけど
2013-12-13 01:48:01@Jominian ただ、馬謖は越巂に入部してなくて、李厳が代行してますね。それで反乱が起きたとき、李厳が越境して鎮定している。
2013-12-13 04:29:11馬謖は、越巂太守でありながら、劉備・諸葛亮とともに軍略を練っていたとあり、また犍為太守の李厳が越巂郡の反乱を鎮圧しており、馬謖が越巂郡に入部した形跡がない。諸葛亮の南征は越巂ルートを取ったが、この進軍経路は劉備の時代に決められていたのかもしれない。
2013-12-13 04:41:11ただし馬謖は、諸葛亮に「心攻」を説いているから、武力ではなく、在地豪族を懐柔するなどといった外交的解決を考えていたように思える。 https://t.co/yGIRSh0GhV
2013-12-13 04:42:57@yunishio 高定が新道県まで来た時ですね。越嶲は後年まで回復できなかったくらい、反乱が酷かったですから、赴任し難かったのかもしれないです。李厳の時は、漢嘉太守の黄元や、朱提太守の鄧方らは何をしてたのかも気になります
2013-12-13 07:49:15蜀漢の黄氏 - 雲子春秋 (id:chincho / @my_birthday0128) http://t.co/vL1gESqrVV
2013-12-13 08:09:01@yunishio 何も書かれてないんですよねえ。劉備が死ぬやいなや反乱するし、「越嶲に逃げるつもりだ」とか言われるし、李厳が鎮圧した乱の件で、馬謖や諸葛亮と一悶着あったのでは、とか勘ぐってしまいますわ。あの時期の太守なので荊州から来たような気はします
2013-12-13 08:11:18