ちっぱい先生の語るダントンなど

とりあえずまとめました。
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ぱなすまきあ @panasmakhia

その後、「ロベスピエールの私的代理人」という資格で、派遣議員を監督する「公安委員会代理」の特別職の1人(記録には3名程この資格人の名が在るらしい)として活躍したのは以前書いた通りであり、その後19歳で「教育委員会補佐」に内定する。これは現代で言えば「文科省事務次官」に相当する

2014-01-05 16:40:16
岸本元 @bowwowolf

フランス革命の指導者の一人で、ロベスピエールに粛清されたジョルジュ・ダントンの肖像画。檜山修之に似てると思う http://t.co/ce57vqdOuO

2014-01-04 09:21:23
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ぱなすまきあ @panasmakhia

ダントンもまた、色々の噂をまといつつもしかし、極めてパワフルな「快傑」であったと伝う。しかし、「あばた面であった」と言うが、そこらへんは補正か

2014-01-05 15:38:52
ぱなすまきあ @panasmakhia

そういえばこないだの、「ロベスピエールの顔の復元像」については、わたしはかなり懐疑的なのだけど、その理由としてロベスピエールが「甲高い声で演説をした」という記述である。ミラボーやダントンなどの、迫力有る巨男と異なり、ロベスピエールは声量に乏しかったと言われる

2014-01-05 15:41:19
ぱなすまきあ @panasmakhia

手元に画像は無いが、とすると先日公開された面相骨格というのは、些か信じがたい。あの骨格で「甲高い声」になるものだろうか?また、肖像も描かれている(ナポレオンにおけるダヴィッドの様な「御用画家」ではない)が、それとも余りに似ていない。更に言えば「傷が無い」

2014-01-05 15:44:08
ぱなすまきあ @panasmakhia

ロベスピエールはテルミドールのクーデタの折りに、至近距離から「顎を撃ち抜かれて」いる。この為、最早その最大の武器である「演説」をそれ以上行使出来なくなったと云うが、デスマスクでわざわざその傷を無くすだろうか?デスマスクを「忠実に復元した」ならその痕を消すだろうか?

2014-01-05 15:49:02
ぱなすまきあ @panasmakhia

以上の事から、件のマダム・タッソーの「ロベスピエールのデスマスク」は、「別人の物である」可能性が少なくないと考えている

2014-01-05 15:50:46
ぱなすまきあ @panasmakhia

そういえば、肖像って話で言えば、わたしの好きなマルク・アントワーヌ=ジュリアンも、肖像が残って無いんだよなぁ。残念(´・ω・`)

2014-01-05 15:56:43
ぱなすまきあ @panasmakhia

この人はお母さんが筆まめで、頻繁に息子に書いた手紙が現存してるので、人柄と事蹟についてはある程度判っているだけに惜しい。ちなみに、お父さんも、同じ「マルク・アントワーヌ」なので、母親は息子の呼び掛けに際して色々考えた挙げ句、あだ名の「ジュール」と呼ぶことにしたというw

2014-01-05 16:00:23
ぱなすまきあ @panasmakhia

ジュリアンは、多士多彩な仏革命史でも、実に異色な人物で、作家藤本ひとみは、ジュリアンを主人公にした作品を2作、主人公ではないが副主人公格としたモノを1作書いている。 生年は1774年。表舞台で活躍したのは1792年〜1794年。つまり、「17歳から19歳の間」という

2014-01-05 16:07:05
ぱなすまきあ @panasmakhia

「表舞台以外」ではその後もちょいちょい有り、たまに書くが1796年からはナポレオンの広報幕僚として軍内部用の「イタリア遠征軍新聞」を執筆。エジプト遠征まで随行するもナポレオンと決別、帰国。その後もある程度のポストには第一帝政で就いていた。当時の部下にスタンダールが居る

2014-01-05 16:11:23
ぱなすまきあ @panasmakhia

だが、それよりなにより記録に残るジュリアンの「最初の政治活動」は、「1789年7月14日」つまり、「バスティーユ襲撃」の日である。当日、学校の試験だったジュリアンは、試験が終わり街に出ると、バスティーユからの「凱旋行進」を目にしたが、この時に憤慨したと云う

2014-01-05 16:16:17
ぱなすまきあ @panasmakhia

「たかが監獄1つ落としただけでご満悦の大人達」に反発し、テストの問題用紙の裏に文言を書きなぐったビラを作り、街に出て配った。文面は、【バスティーユを倒した事はとるに足らぬ。王座を打倒せよ!】 当時14歳か15歳。仏革命で最年少にして、最も急進的な共和主義革命家だった

2014-01-05 16:19:22
ぱなすまきあ @panasmakhia

議会を傍聴し、当時まだ無名のロベスピエールに心酔する。1792年、戦争が始まると徴兵督励官である、軍事委員に特例として採用、ピレネー地方に単身赴くが、これにはロベスピエールの推薦が有ったとも。革命意識の薄い地方で、到底規定人数は集まらないと言われていた

2014-01-05 16:29:42
ぱなすまきあ @panasmakhia

当時17歳だったが、「童顔だった」と云うジュリアンは、子供にしか見えなかっただろうが、1人大演説を打ち群衆を熱狂させ、なんと規定人数の5倍が殺到したと記録されているから、天才と言う外無い。父親も南仏の名士として国民公会議員だったが、目立った業績は記録に無い

2014-01-05 16:34:04
ぱなすまきあ @panasmakhia

「ロベスピエールの側近」と言えば、一番にサン=ジュストが浮かぶが、サン=ジュストは必ずしもロベスピエールと政見を同じくしたワケでなく、真にロベスピエールの腹心中の腹心と言えば、「ロベスピエールの影」と言われたこの少年ジュリアンだけだった様である

2014-01-05 16:37:04
ぱなすまきあ @panasmakhia

苗字の「ジュリアン」が由来のあだ名なので、要するに日本人で言えば、「鈴谷さん」のお母さんが、自分の子供を「鈴やん」って呼んでるよーなモノで、なんつーかまぁ。「自分と同じ名前を子供につけてはいけない」典型例だよなぁ、とw

2014-01-05 16:02:41
ぱなすまきあ @panasmakhia

この後、ナポレオン仕官までの2年間の足取りはよく判らない。だが1796年の「共産主義者」グラックス・バブーフの乱の直前まで、バブーフの参謀をしていたと記録にはある。この頃の話をレーニンは挙げジュリアンを批判した演説が残っており、共産主義界隈では割に有名人だったらしい

2014-01-05 16:49:28
ぱなすまきあ @panasmakhia

だが、何故かこの内定は取り消され、再び公安委員会代理として、ジロンド派の元根拠地ボルドーに派遣、ジロンド派残党の蜂起計画を殲滅するが、間もなくテルミドールに至りジュリアンも逮捕された。しかし、「年少である事」を理由に釈放。ロベスピエール派として唯一生存した

2014-01-05 16:45:58
ぱなすまきあ @panasmakhia

当時、混乱と腐敗の極みにあった総裁政府時代、下層民衆を支持基盤としたバブーフは、かなり影響力が有り、この蜂起を鎮圧出来たのは、警察大臣フーシェの故と云うが、かつてロベスピエールの盟友で裏切ったフーシェが、「ロベスピエールの影」の事を把握していなかったとは考え難い

2014-01-05 16:52:04
ぱなすまきあ @panasmakhia

と、するとナポレオンにジュリアンを推薦したのは、もしかしたらフーシェだったのかも知れず、バブーフ派の「逮捕直前に離脱」したジュリアンは、そもそもフーシェと通じていたのかも知れないが、この辺りの史料は残っていない

2014-01-05 16:53:33
ぱなすまきあ @panasmakhia

以上、例によって「記憶だけで書いてるので、細部が微妙に異なる可能性は有るが、大体合ってる」ジュリアンの事蹟紹介。 ジュリアンについては、自慢じゃないが世界で上から300番目以内に入る程度には詳しい自信がアルw

2014-01-05 17:06:19
ぱなすまきあ @panasmakhia

ちなみにマルク・アントワーヌ=ジュリアンは、1854年だったかにアメリカで天寿を全うして死去しているが、後半生については、全くと言っていい程判らない。研究者は、「意図的に自分の痕跡を抹消しようとした様だ」と。

2014-01-05 17:03:29