早川大地氏(東京エスムジカ)による日本の音楽近代史
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しかしどこで人気になったか?大正初期にジャズクラブなどはない。答えは船の上。太平洋を日本郵船などの定期便が行き来するようになり、その船の上に日本人ジャズバンドを載せたのだ。船は本場アメリカの上陸するので、その度に楽団は本場のジャズを勉強、そして、また船の上で演奏をくりかえした。
2014-01-10 22:54:00まだ庶民が海外旅行を出来るような時代ではないが、それでも大正デモクラシー、第一次世界大戦による大正バブル、海外渡航者は富裕層や、学者を中心に増えていた。そんなかで、ジャズは優雅な娯楽として発展したのだ。大正中期になるとこんどは映画館に場所をうつし、無声映画の伴奏としても使われた。
2014-01-10 22:57:03さらに大正中期にはダンスホールが出来る。鹿鳴館で下手なダンスを踊って西洋人に笑われてから30年あまり。この時最も高名だったのがバイオリニスト波多野兄弟の主催するジャズオーケストラ、ハタノ・オーケストラ。ハタノオーケストラは軍楽隊出身者や、少年音楽隊(当時のブーム)で構成されていた
2014-01-10 23:01:38当初はジャズバンドであったハタノ・オーケストラのメンバーは、やがて日本交響楽協会という団体に吸収される。それは、常設オーケストラ設立をめざした山田耕筰の設立した団体だ。ところが結成すぐ日本交響楽協会は山田耕筰とお金でもめて解散する [[また山田か!]]
2014-01-10 23:04:39ちなみにこの時代、大正時代太平洋航路、中国航路にジャズミュージシャンが多く乗っていたとのべたけど、彼らの何人かは上海租界(欧米人が多く、仕事の需要が会った)にわたり、「上海バンスキング」と呼ばれる人々となった。借金ばっかりしてたからバンスキング。ある意味ミュージシャンらしいね。
2014-01-10 23:11:23ちなみに上海バンスキングという映画が有るが、昭和前期の上海の様子がよくわかっておもしろいです。オススメ映画.主人公の名前が波多野なのは、おそらくハタノ・オーケストラから取ったのだろうね。スピルバーグの「太陽の帝国」でも上海租界はでてたっけ。
2014-01-10 23:13:13さて、吹奏楽(軍学)、大衆音楽、ジャズと見てきたが、最後はオーケストラ。軍楽隊は吹奏楽だが、弦楽がいないのだ。日本では吹奏楽は軍部の必要性上、明治初期島津久光の時代から整えられたが、弦楽を含めた’オーケストラ’の誕生はもっとずっとおそかった。
2014-01-10 23:26:43バイオリン自体は明治初期から、あったし、明治30年頃には鈴木バイオリンが、国産バイオリンの生産に成功しているというのに、なぜか弦楽隊の誕生はおきなかった。なぜか、要はお金がないのだ。軍楽は軍人だからいいとしてもオーケストラではお金を稼げないのだ。
2014-01-10 23:29:02現代の大阪市の例をみるまでもなく、オーケストラはどうやって、お金を稼ぐか、というのは最大の問題だ。芸術と金銭問題はいつの時代も切っても切れないのである。さて、そこで日本のオーケストラはどうやって誕生したか。当初スポンサーになったのは、「デパート」である。
2014-01-10 23:30:52明治末、現在の大丸松坂屋「いとう松坂屋」や三越、白木屋(東急)などが、つぎつぎと少年音楽隊を組織した。それはいわゆるちんどん屋のような鼓笛隊で、デパートの客寄せの為だったらしい。しかしこれはれっきとした独立採算の音楽隊の誕生となった。
2014-01-10 23:37:16やがて、いとう松坂屋はこの楽団に大正元年、弦楽隊を導入する、これの指導に当たったのが、バイオリニストで軍楽隊を退団したばかりの早川弥左衛門。これが日本最初の独立採算交響楽団ととなる。そしてその二年後、あの山田耕筰がドイツ留学から帰ってくる。。[また山田か!]
2014-01-10 23:40:52そして、山田耕筰は、三菱の豊富な資金力をバックに東京フィルハーモニー会を設立するが、すぐ浮気問題をおこし、三菱からあっさり見放されてしまう。
2014-01-10 23:49:34さてそんなわけで、大正時代を通じて少年音楽隊などはたくさん会ったのだろうが、本格的なオーケストラの誕生は10年ほど過ぎた後、大正末期となる。ここで山田耕筰と近衛秀麿の二人がオーケストラを作る。しかしなんやかんやいって、失敗し、山田は借金を背負ってしまうのだ。
2014-01-10 23:55:02近衛秀麿は、戦前のクラシック音楽会において、山田の次に重要な人物だ。なにせ超名門の出だから金はある。海外へ行って、楽団をまるごと雇い入れ、指揮の実績を作ってきたりする。で、日本ではオーケストラを作るのに豊富な資金力で山田をバックアップする。
2014-01-10 23:58:02しかしオーケストラを作った山田と近衛、今度は、楽団のメンバーの処遇と、金銭問題を巡って対立する。であっさり楽団は解散。原因は山田のカリスマ性の無さともいわれている。作品は天才的だが、つくづく困った人なのである。現代にもいそうだ。 [また山田か!]
2014-01-11 00:01:02というわけで山田の作戦はいろいろと頓挫し、昭和の前期に入ると再び、早川弥左衛門が「洋楽研究会」を作る、これが現在の東京フィルハーモニーの元となったのだが、資料があまりなくて、よくわからない。せいぜい東京フィルのページにある程度である。 http://t.co/B17ftbntOO
2014-01-11 00:16:52で、戦中。このあたりのことは山田は軍人かぶれになるし、記録もほとんどなくよくわからないのだが、祖母の口伝によると、楽譜は足りなくなり、楽器は不足し、相当に大変だったらしい。しかも敵性音楽だし、そりゃそうだよな、というところである。
2014-01-11 00:26:25で、終戦直後昭和20年9月。軍人かぶれのはずの山田はすぐ手のひらを返して、音楽振興界を掌握。即座に東京都音楽団を結成。このときのメンバーが(団長 山田耕筰、管弦楽団部長 早川弥左衛門、吹奏楽団部長 内藤清五)なのだが、これは山田一味が独占している、と非難を受ける。[また山田か!]
2014-01-11 00:34:32で戦後は近衛秀麿が参加し、東宝のバックアップを受けた東京交響楽団など、いろいろな楽団が誕生するが、どれも戦後すぐは経営がうまくいなかかったようだ。N響をのぞいて。そうやってみると、そもそもオーケストラが運営できた時代ってほとんどなかったんだなあ、という気がする
2014-01-11 00:41:18しかし、この山田という人見れば見るほどヒールで、実に面白いのだ。女にだらしなく、金に汚く、権力に弱い。いい音楽家ほど、そういうもんなのである。天才はダメなほど魅力的なものなのだな。
2014-01-11 00:55:42http://t.co/P2WWsbgYmy ああ、戦前の曲の話で一曲追加紹介。やっぱりすきなのは蘇州夜曲。これも作詞が西条八十で、作曲が服部良一。
2014-01-11 03:29:06