【三国志】二宮の変への理解 2014.02.14
- korekorebox
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@sidenp @Golden_hamster やりとりを見て思いましたが、「陸胤から聞きました」って言ったのも、予想と違ってあまりにも孫権の追及が厳しく、「話が違う」と困惑してそう言わざるを得なかったのかもしれませんね。
2014-02-14 22:23:48陸遜の上奏の後、顧譚の兄弟達が流刑にされてるようなので、こそこそしていた二派が思い切って行動するようになったのはこれがきっかけなのかもしれんね。まあ、主にこそこそしていたのは近臣ばかりの魯王派だろうけど。
2014-02-14 22:29:59最後に孫権が陸遜の思いに感動している事実がある以上、陸遜にケチを付けるのにも限界があるなあ。まあ、孫権が泣いたのは感動してじゃなくて、「頼む、あの恥ずかしい書簡だけはどうか表沙汰にしないでくれ!」って泣いて頼んだってだけのことなのかもしれんが。
2014-02-14 22:34:22陸遜を詰問したのは「中使」なんだけど、これ呉書でしか出ないのね。で、中書の役人が担当した例があるようなので、肩書不明の楊竺は中書の人なのかなと思った。
2014-02-14 22:46:48「中書の役人が魯王の所に出入りして孫権に対して魯王を褒めそやすのか?」とも思うが。他の孫権の側近は魯王派というより、孫権の意向に添うべく行動していただけのようだし、思い違いかもしれん。
2014-02-14 22:50:10孫綝伝では「中使」を遣わして文欽らに詔を下し、呂拠を討たせたとある。孫亮伝では単に「使」。それが呂拠伝だとほぼ同文だが「中書」を遣わしたとあり、この事件では「中使」は中書の事を指している。
2014-02-14 23:58:47@Golden_hamster 孫綝は他に侍中や黄門郎などを各陣営に派遣してるので、彼らも「中使」のカテゴリに含まれるのかもです。
2014-02-15 00:05:03通語の話を信じるなら、当初、孫覇は自前の属官も宮殿も持たず、皇太子孫和の住まいだった南宮に居候して、属官も共有していたというから、楊竺も元々は孫和の属官で学友の一人だった可能性もあると思う。
2014-02-14 22:17:31孫登と孫慮の時の比較
通語だと孫覇を南宮から出して別に宮殿を立てるべきだというのは「群公の議」だったと書いてるから、丞相顧雍の主導だったぽい。孫慮の時も武昌から出せ出せ言ってたな。
2014-02-14 22:21:03@Rieg__Goh 孫覇の待遇問題は別宮に住まわせる事で決着したのに、顧雍が死んだ途端に顧譚と吾粲が夏口へ出すぐらいしなきゃダメだと言い出したので、孫権は話と違うじゃないかと怒ったのかもですね。
2014-02-14 23:42:13@Rieg__Goh 王夫人の憂死によって、「群公の議」が出された時と吾粲らが意見した時とでは、状況が大きく変わっていましたから、力ずくでも孫覇を追い出さねばという危機感が孫和側にはあったんでしょうね。結果として孫権の気を損ねて墓穴を掘っちゃっいましたが。
2014-02-14 23:50:29陸凱が表沙汰にしなかった上奏文によると、ちくまでは「先帝は外のことは顧承・陸遜・歩騭・張昭に相談し、内のことは胡綜・薛綜に相談して決めた」とあった。並ぶ名前に違和感があったので原文を読むと、「顧・陸・朱・張」とあった。これ、「先帝は外のことは呉の四姓に相談し」って意味に見える。
2014-02-14 23:29:32