沖縄戦

沖縄戦は6月だけ起きたわけではありません。69年前のきょう、何があったのか。出来る範囲でつぶやいていこうと思います。
62
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】6月6日@真壁 午後5時ごろ。当時15歳の富名腰朝輝さんは岩陰に潜む家族と離れ、タコ壺を掘っていた。突然、すさまじい爆発音。母サワ、姉ヨシ、弟朝一、朝永、朝勇、妹アキ、チヨ子さんら9人が即死した。「体の震えが止まらなかった(略)放心状態になり何もすることが出来なかった」

2014-06-06 11:29:31
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】6月5日@小禄 海軍司令部の250㍍先にまで米軍が迫ってきた。大田実司令官は電報を打つ。「残存部隊を率いて(略)武人の最後を全うせんとする考えである」。陸軍の退却命令も拒んだ。沖縄の陸海軍が互いに「信頼感を失っていたことだと兵隊の間では噂した」と海軍の東江芳隆氏は書く。

2014-06-05 12:21:14
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】6月4日@南部 米海兵隊のユージン・スレッジ氏は掃討中に、重傷を負った老婆に会った。彼女は両手を差し出し、手の甲の入れ墨を示した。古来の風習ハジチ。そして、その手で銃口をつかみ、自分の眉間に向けた。「盛んに身ぶりで伝えてくる。引き金を引けというのだ。なんということだ」

2014-06-04 11:16:18
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】6月3日@高嶺 天気、雲量、風向、視程……。特攻隊の出撃判断に不可欠な気象情報を、暗号電報で送り続けていた沖縄地方気象台の野原辰興氏らが解散命令を受けた。「みんなバラバラに別れた(略)艦砲とグラマン、そして迫撃砲は間断なく叩き込まれる。もう鶏の首をしめるようなものだ」

2014-06-03 13:18:54
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】6月2日@伊平屋島 この夜、特攻機が海に不時着した。操縦士は自力で島に泳ぎついた。「最初に逢ったお爺さんは、標準語が通じないもんだから(パイロットの)篠崎さんをアメリカ兵だと思ったんだそうです。ペコペコおじぎなんかして、助けてくれと」。翌日、本当に米軍が島にやってきた。

2014-06-02 11:47:49
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】6月1日@玉城 壕内で赤ん坊が泣き出した。米兵に見つかると恐れた住民が口々に非難する。「突如として、泣き声が止んだ。母親は(略)肩をふるわせながら、しくしく声をころして泣き始めた(略)その事が何を意味するのか、少年だった僕にはわけがわからなかった」。喜舎場功さんは書く。

2014-06-01 12:22:40
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月31日@摩文仁 師範鉄血勤皇隊の諸見守康さんは、朝もやの摩文仁に着いた。「世の中にこれほどの楽園があるのかとわが目を疑った。畑には大豆がみのり、いも畑はあおあおと葉を繁らせ(略)甘い蜜をたたえたさとうきびがおい茂っていた」。まだこんな光景が広がっていた。

2014-05-31 09:54:28
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月30日@高嶺 嘉手納宗徳さんが、ともに避難していた妻を亡くした。弾の降る中で埋葬し、碑も建てた。「わたしはこう思いましたよ、家内は先きに死んでよかったな、と。あと僕はどこで野垂れ死にするかしらん、誰も死体を収容してくれない(略)家族が葬ってくれて、これは幸福だなと」

2014-05-30 11:54:51
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月29日@首里 米海兵隊が首里城趾に達した。誰かが旗をたてようと言い出した。「持っている」。先陣をきった第5連隊第1大隊A中隊のデューセンベリー大尉がヘルメットからとり出したのは、星条旗ではなく、南北戦争の南軍の旗だった。「南部出身者はそろって歓呼の声をあげた」

2014-05-29 11:58:07
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月28日@高嶺 沖縄新報の高嶺朝光氏の前に男が現れた。山本憲兵隊長。だが軍服ではない。芭蕉布で織った住民の着物とモンペ。憲兵隊は多くの沖縄人をスパイ視してきた。「その憲兵少佐殿が、私たちに『どこが安全地帯ですか』と聞いたものだから、私たちは、あきれ返り、ついに怒った」

2014-05-28 10:58:13
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月27日@首里 司令部が撤退。地下足袋の牛島司令官は「ご苦労、ご苦労」と会釈しながら壕外に出た。護衛につく濱川昌也氏が後を追う。その従兄弟である大田昌秀氏は、摩文仁へ下ると聞いて気抜けした。「噂を耳にはさんだことはあったが、それが実行されるとは考えてもみなかった」

2014-05-27 12:46:54
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月26日@高嶺 人の波が南へ向かう。陸軍病院から約4㌔。泥の海となった道を、片足の兵隊が芋虫のように這っているのを池宮城秀意さんは見た。わめいている。「おれたち患者を放り出して逃げる陸軍病院の畜生ども……これが帝国陸軍か(略)おれは絶対死なねえよ……死んでたまるか」

2014-05-26 18:34:21
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月25日@南風原 陸軍病院が南部撤退。ひとりで歩けない重傷患者はミルクにまぜた青酸カリなどで処置された。ひめゆり学徒の岸本ヒサさんは書く。「『これでも人間か。お前たちのやることは』。両足切断の患者がわめいているのだ。衛生兵はその患者を引きずって、奥の方へつれて行った」

2014-05-25 12:03:38
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月24日@読谷 米軍下の読谷飛行場を義烈空挺隊が襲った。5機のうち1機が着陸。飛び出した日本兵は手榴弾で米軍機を壊し、ガソリンを炎上させた。だが翌朝には滑走路は使用可能に。2カ月半後、ある米爆撃機が燃料切れで緊急着陸する。長崎に原爆を落としたばかりのB29だった。

2014-05-24 16:28:51
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月23日@伊江島 米上陸艇が浜に乗り上げた。戦火を生き延びた島民はみな、慶良間諸島に移された。のちに悲劇が起きる。渡嘉敷島。米軍の命令で投降勧告に行った島民が山中の日本軍に殺される。知念朝睦・元少尉は言う。「私が処刑しました(略)命令に従ってやったまでのことです」

2014-05-23 13:18:42
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月22日@首里 「軍ノ組織的防禦力、方(まさ)ニ破断界ニ達セントシ(略)首里戦線ノ運命、今ヤ旦夕ニ迫レリト断ゼザルヲ得ズ」。このまま玉砕するか。それとも知念、喜屋武方面に下がるか。参謀たちの会合を経て、牛島司令官は決断した。喜屋武へ。避難していた住民の運命も決まる。

2014-05-22 11:55:37
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月21日@与那原 夜から土砂降りとなった。梅雨。クリ舟で知念村への上陸を果たしていた決死隊の平良専勝さんらは、司令部への道を急ぐ。「道路は艦砲射撃や爆弾の弾痕で穴だらけ(略)砲弾は、友軍陣地めがけて落雷のように炸裂する」。雨は10日間続いた。穴だらけの道は泥土と化す。

2014-05-21 11:24:12
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月20日@首里 かつての琉球王家の一族、尚順家が首里を去る日が来た。総勢20人余り。出来るだけ食糧を持つようにと言われても、思い出の品は捨てがたい。「アンメーター(乳母たち)は御殿から戴いた着物を何枚も何枚も(略)取り出され、ベソをかきながら食糧と替えておりました」

2014-05-20 11:46:04
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月19日@玉城 大城善昇さんらは、日本軍から「出て行かないと手榴弾を投げ込む」と壕を出された。新しい避難先へ移るこの日、父の善次郎さんが砲撃を浴びた。「ワンネーサッタルムン。ニッターヤ、ヘークゴーンカイクヮッキレー(やられた。みんな早く壕に隠れろ)」。失血死だった。

2014-05-19 12:00:36
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月18日@真和志 米軍がシュガーローフを攻略した。破壊された戦車。砲弾の破片。真っ二つの体。泥からはえた手足。ウジ虫。肉塊。「地獄の汚物」の中で、第6海兵師団は1289人が精神を病んだ。施設に入ったある兵は迫撃砲と聞くだけで「深く掘れ!」と塹壕を掘る動作を繰り返した。

2014-05-18 14:01:04
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月17日@泊 県立二中の儀間昇氏が米兵に見つかった。ハワイ生まれ。5歳で沖縄の祖父母のもとに。「私は手を高々とあげて出て行き捕虜の身となった」。この時、兄の真栄氏は米兵として沖縄にいた。「これは私の弟だ」。捜し続けていた弟の名を捕虜リストに見つけたのは沖縄戦後だった。

2014-05-17 13:17:20
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月16日@真和志 アンソニー・コートス中尉はシュガーローフの周りが海兵隊員の死体でおおわれているのを見て衝撃を受けた。第6海兵師団はこの日を、沖縄戦全期間を通じて「もっとも打ちのめされた日」と評した。一方、日本軍も大本営に打電する。「組織的戦略持久ハ終焉セントス」

2014-05-16 11:59:43
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月15日@真和志 激戦の丘「シュガーローフ」にとりついた米少佐は部下に銃剣をつけさせ、「われわれは、これよりバンザイ突撃を敢行する」。手榴弾を投げつけ、頂上まで駆け上がった。が、日本軍の反撃にあう。戦死した少佐にちなんで、中部の米軍キャンプはコートニーと名付けられた。

2014-05-15 12:14:02
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月14日@本部 デマが飛び交った。後に宮森小学校長もつとめた仲嶺盛文氏は日記に書く。「敵は三万五千位やっつけられたとの事だ。友軍が三コ師団牧港に上陸してゐる。明日から始めて二十七日の海軍記念日までには、全部かたづける軍の計画らしい(略)戦争もだんだん結末に近づいた」

2014-05-14 11:39:10
朝日新聞那覇総局 @asahi_okinawa

【沖縄戦】5月13日@久志 本島北部でゲリラ戦を続けていた第三遊撃隊は、戦況報告などで首里の司令部まで決死隊を出すことになった。陸上突破は出来ない。クリ舟で東海岸沿いに下ることになった。正午ごろ、平良専勝さんらは訣別の杯を交わした。出発。音がしないように舟の櫂に布を巻いて進んだ。

2014-05-13 14:07:35