福田尚代/MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり

MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり 出品作家 青田真也|髙田安規子・政子|パラモデル|福田尚代|宮永亮|吉田夏奈 会期 2014年2月15日(土)―5月11日(日) 続きを読む
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福田尚代 @fukudanaoyo

世の中のことと私的なことのつながりは、 私には作品に係ることでもあり、この数年はくるしいくらいの問題だったけれど、それに加えて、言葉にすること、発話することについても、たいせつな示唆にみちていた。暗い道の先に静かな光が見えたような気持ち。

2014-03-05 17:25:11
福田尚代 @fukudanaoyo

『人質の朗読会』のことをまだ考えている。ひとつ目は、彼らの朗読が、事件への声高で直接的な言及ではなく、本質的な表現(作品)として心を揺す振るそのしくみ。常に少し先の「最期」を想像しつつ生きることと、その中で言葉を遺す作業を淡々と続けるということ。誰もがずっとそんな只中にいる。

2014-03-11 19:32:18
福田尚代 @fukudanaoyo

ふたつ目は、人質たちの冷静なふるまいについて。最終的な場面で咄嗟に行動を支えたのは、知性なのか愛なのか、日々の積み重ねが与え得る人の器の深さなのか。この場合は、朗読会に「観客」がいた所為もあったのだろう。作品を人前に差し出すことの意味は、案外そんな所にもある。

2014-03-11 19:34:59
福田尚代 @fukudanaoyo

三つ目は、朗読会のさまざまな観客について。まず同じ人質という立場の者たち。観客でもあり朗読者でもある。それから見張り役の犯人。日本語を理解しないが、音に耳を傾けることはできる。そして盗聴器を通して、遠方で密かに朗読を聞いていた、救出する側の通信員と、その通訳者。

2014-03-11 19:37:13
福田尚代 @fukudanaoyo

作者が作品を届けたいと心の奥底で望む相手とは誰なのだろう。同じ心を抱く者か、意味を越えて見る者か、未知の第三者か、理解者か。人質たちはあらかじめ書き記した原稿をもとに朗読をしていた。つまりおそらく、そこにいない誰かへも文字を遺そうとしていた。

2014-03-11 19:39:28
福田尚代 @fukudanaoyo

回文の新刊書『仮名齧り』を東京・池袋の書店「ポポタム」さんへ納品しました。通販もしているので、遠方の方もこの機会にどうぞ。http://t.co/4TDmoawFnQ MOTナディッフで販売中の本と同じく、ウサギのサインを4色で描きました。(お出かけの際は在庫をご確認ください。)

2014-03-12 11:58:05
福田尚代 @fukudanaoyo

喪失の悲しみによる作品と、破裂しそうな歓喜から発生した作品。どちらも大声ではない。

2014-03-20 11:34:01
福田尚代 @fukudanaoyo

「思いつき」や「アイデア」や「発想」から生まれた作品などあるだろうか。私は、核心部分の切実な不気味さにこそ関心がある。

2014-03-20 12:47:34
福田尚代 @fukudanaoyo

抱き得た詩句 仮の居場所は泡よ 詩は 祈り隠した液体

2014-03-23 05:09:25
福田尚代 @fukudanaoyo

夜 雪は死と親しい 残雪 潜在した詩と死は 消ゆるよ

2014-03-23 05:10:18
福田尚代 @fukudanaoyo

つまりは不滅 泡と霜 使途は集め ふわり待つ

2014-03-23 05:12:27
中島 智 @nakashima001

それに比べ、「MOT アニュアル2014 フラグメント」は充実した展示だった。もとより日本の現代アートの「捻転」を展示する意味においても充実していた。福田尚代は云うまでもなく、高田安規子・政子もまた見応えがあった。ただ、これらにはホワイトキューブ以外でこそもつ場(意志)がある。

2014-03-23 18:05:45
中島 智 @nakashima001

ホワイトキューブ以外の場で制作された作品には、それが「美術」であろうとする意志とそうでない意志とが対極主義的に拮抗した緊張感がある。ところがそれがホワイトキューブに埋没=展示されてしまうと、「美術」であろうとする意志は飽和されながら、同時に美術化をおこす場のベクトルと馴れ合う。

2014-03-23 18:13:45
中島 智 @nakashima001

この馴れ合いは、逆に「そうでない意志」を、美術的な(もしくは凡庸な)差異化表現であるかのように見せてしまう。この効果は作家/作品にとって幸福な事態であるとは思えない。そんな、美術館で「フラグメント」をフラグメントのまま展示することの困難について考えさせられた展示。

2014-03-23 18:21:04
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 中島さん、ありがとうございます。そうですね。そもそも私の中の「そうでない」方の意志はどんな種類であれ展示を拒絶しているので、展示の際はもう一方の私、「美術」であろうとする者が力を奮います。「そうでない」側は圧倒的に不利ですね。

2014-03-23 18:34:56
中島 智 @nakashima001

見え方の不利ですね RT @fukudanaoyo: 中島さん、ありがとうございます。そうですね。そもそも私の中の「そうでない」方の意志はどんな種類であれ展示を拒絶しているので、展示の際はもう一方の私、「美術」であろうとする者が力を奮います。「そうでない」側は圧倒的に不利ですね。

2014-03-23 18:38:16
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 「そうでない」側は、見え方や見せ方はどうでもいいし、興味もない(幸/不幸が無い)。 誤解されてもまったくどうでもいいのか、少しは心が動くのかによって、今後変化してゆくのかもしれません。

2014-03-23 18:47:40
中島 智 @nakashima001

@fukudanaoyo 個人的には、やはり小出さんの半-事務所的な空間、しかももともとが画廊として設計されていないヒューマンスケール空間での、作品を捜しながら見入る状態がベストに思われました。そこでは健全な?生の、「そうでないもの」との拮抗がより活きてました。

2014-03-23 18:48:03
中島 智 @nakashima001

@fukudanaoyo はい、作家にとってはそうなんですよね。ただ「見え方」の側からいえば、やはり「そうでない」側面というのは当然、観る者にとって届かない外部へとしっかり連繋しているはずなんです。でも美術化空間ではその作品の「なかに」総てが込められているかのような裁断が起きる。

2014-03-23 18:55:19
中島 智 @nakashima001

@fukudanaoyo それは言い替えれば作品の自律とも云えるのでしょうが、別面、それはその作品が張り巡らせている外部経路を裁断してしまうことなんです。それはある種の標本化でしょうか、その標本がもっていた生態、地勢、時間などが分類カテゴリーの内に掠めとられてしまう。

2014-03-23 19:02:15
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 それを「美術」の側のコントロールではなく、「そうでない」側に何某かを期待する所にやっと今、自分はいるのだと思います。それはともかく、ここで中島さんが問題にされているのは展示ケースに象徴される裁断の方ですね。これもまた難しい問題です。

2014-03-23 19:14:20
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 初期の頃は、画廊や美術館でも展示台やケースは全て受け付けられず、作品を床に直に置くことしかできませんでした。「そうでない」側が今より楽にふるまえる場面があったと思います。

2014-03-23 19:21:10
中島 智 @nakashima001

@fukudanaoyo はい、展示ケースもその一部ですが、畢竟それは「そうでないもの」の裁断にかんする問題です。フラグメントというテーマがせっかく示唆していながら、しかし「美術」以外の広がりを裁断してしまう美術館の力学がじつに悩ましいな、と(笑)

2014-03-23 19:38:29
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 ケースの話は比喩の気持ちもあって書きました。美術館にあるというだけで、美術の枠で理解しようとする人も想像以上に多いですね。

2014-03-23 19:39:30
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