笹川濤平海軍大佐と軍艦「名取」短艇隊

MIXIで「水中くろは堂」を開かれているイラストアーティスト黒羽由架様と御祖父様であられる、笹川濤平海軍大佐に捧ぐ(どうか、黒羽様にこのまとめが伝わりますよう)。
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黒羽様のサイトはこちらです。
http://www.geocities.jp/kurokazakiri/touheisan.html

1.名取短艇隊

simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

 昭和19年10月18日、大日本軍艦「名取」は米潜の雷撃を受けた。翌朝、6時頃、本館はついに力尽き、総員退去が令された。名取は第三号輸送艦と同行していたが、第三号輸送艦は名取艦長の命令により、輸送任務を続行したのでこの時点では名取は単艦であり、乗員たちは救助もなく

2014-05-17 16:49:29
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

(海軍機が名取沈没を目撃しており、またあとでわかったことだが救難部隊も出していたそうだが発見できなかったという)、そのうちの195名がカッター(短艇、オールで漕ぐ)3隻に乗ることができた。この3隻が名取短艇隊であるが、183名がフィリピンまで300浬を漕ぐことになる。

2014-05-17 16:49:46
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

それは成功し、同月30日に無事に日本占領地であったフィリピン・スリガオに到着したのである。この間については、光人社NF文庫「先任将校~軍艦名取短艇隊帰投せり~」松永市郎著が当事者であるのでご一読されたい。

2014-05-17 16:49:56

2.スリガオにて、外川清彦海軍軍医中尉

simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

 名取短艇隊が無事にスリガオについた時出迎えたのは現地にいた海軍第三十一魚雷艇隊派遣隊責任者(注1)の外川清彦(東京帝国大学医学部卒、昭和18年卒)海軍軍医中尉であった。陸軍からの連絡を受けて桟橋まで出迎えた彼は、

2014-05-17 16:50:17
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

「貴隊に軍医はいますか?」と聞いた。しかし、名取短艇隊には軍医はいなかった(注2)。すると「それでは、小官に軍医長を命じてください」という。士官の補職は海軍省人事局が行うので勝手なことはできないが臨時ということで、外川軍医中尉は名取短艇隊軍医長の任務を行うことになる。

2014-05-17 16:50:59
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

何分にも10日間以上絶食に近い名取の乗員たち(しかも洋上でカッターを漕いで300浬という重労働をしてきた)は緊急に医療が必要だったのである

2014-05-17 16:51:41
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

 さて、松永大尉は陸軍の部隊に行き、食糧をもらってきた。ところが、彼ら名取生存者に与えられたのは薄い重湯だけ。一方で魚雷艇隊員は通常の食事。なんだこれは、と松永大尉は怒り、「外川中尉を呼んでこい」と命じ、外川中尉は走ってきた。会話をそのまま引用する(ただし人名の敬称は略する)

2014-05-17 16:51:44
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

松永「外川中尉、食糧は貴様の要請で、俺が陸軍から大量にもらってきた。ところが魚雷艇隊の連中はご馳走をたらふくたべているのに、短艇隊員はうす~い重湯だけ。この差別はひどすぎるぞ」 外川「松永大尉、今朝、小官が短艇隊の軍医長を願い出たことを、覚えておられますか

2014-05-17 16:52:04
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

松永「覚えとる」 外川「それでは、冷静に考えていただきます。短艇隊員は、自覚症状がないだけで、総員重病人です。十日以上も食事をしていないみなさんにいきなり普通食をあたえたら、明朝、総員死んでしまいます。『名取』短艇隊員の健康管理は、軍医長の小官に一任していただきたいと思います」

2014-05-17 16:52:32
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

松永「よーし、帰れ」 (以上、『先任将校~軍艦名取短艇隊帰投せり~』p288より引用)。  実は松永大尉は、子供の頃腸チブスにかかったことがあったそうだが、その頃腸チブスに薬はなく、半月ほどの絶食療法しかなかったという。

2014-05-17 16:53:06
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

腸チブスで死ぬものはほとんどいなかったそうだが、絶食期間が明けてその時に急に食べた患者が消化できず死亡したそうである。これを外川中尉の発言で思い出した松永大尉は名取短艇隊員にそれを告げた上で、外川軍医長のお許しがなければ、一切飲み食いをしてはならない」と命じたそうである。

2014-05-17 16:53:30
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

この後、食事に関するトラブルもなく、そして、食事による死亡者はでなかった。

2014-05-17 16:53:33

3.外川海軍軍医中尉と笹川涛平海軍大佐

simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

 笹川大佐は兵学校50期で若い時から陸戦が専門という珍しい士官である(らしい)。「陸戦の大家」とまで書かれた本があった(書名を失念したがソロモン方面の戦記である)。

2014-05-17 16:53:49
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

笹川大佐がソロモンから帰ってきたあと、海軍軍医学校の指導官になるのだが、何やら毎晩酔っ払っては軍医学生にいたずらしていた、らしい。名前だが「なみへい」ではなく「とうへい」である。

2014-05-17 16:53:59
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

 さて、外川軍医中尉が「軍医長にしてください」といったのには理由があったのである。笹川指導官が軍医学校でこんな指導をしたという。

2014-05-17 16:54:18
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

「君たちは若いながら技術者である。技術者には技術者としての誇りと識見を持っていなければならない。君たちが、尊敬できる指揮官に仕える場合は問題ない。もし万一、指揮官がわけの分からないことを言った場合、君たちはどう対処するか、

2014-05-17 16:54:37
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

このことを平常から肚をすえておけ。今日、明日中に回答しろというわけではないが、実施部隊に出て行くまでに解決しておけ」と。

2014-05-17 16:54:40
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

 日本海軍にも闇の部分はあり、それは「軍令承行令」というものが根拠だった。兵科将校といい、機関科将校という。軍医・主計・薬剤・歯科医・法務・軍楽ならば同じ「少佐」でも「将校相当官」と呼ばれるのである。

2014-05-17 16:55:02
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

軍令承行令の問題はいろいろ論ぜられているのだが「アレは失敗だった」と言う人が多いようである。それは資料を読んでいただくとして

2014-05-17 16:55:21
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

もし、松永大尉が「俺は兵科将校だ! 相当官の軍医に意見される筋合いはない! ご馳走を出せ」といった場合、おそらく、外川中尉の懸念(総員死亡)は現実になっただろう。そこで外川中尉は「軍医長にしてくれ」と言って伏線を作り、

2014-05-17 16:55:52
simo@紗希&ツチヤ教徒 @simoMC3

健康管理は軍医長である小官の仕事だから任せてくれ」といったという。つまり、笹川大佐の指導を受けた外川中尉が名取短艇隊の治療をしたからこそ、彼らは生存できたのである。

2014-05-17 16:56:02