- uchida_kawasaki
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※当アカウントのtwilogです。 ここではツイートの並び順を【古い➔新しい】に変更して読んで頂くことができます。投稿開始は5月15日です。 twilog.org/AYaroshinskaya
2014-05-24 21:37:21私は6歳になる息子の健康にとって「70年35レム」の被曝が実際にどういうものかを知りたい、突き止めたいと思っている<ただの人>である。 アラ・ヤロシンスカヤ 隠された事故報告書『チェルノブイリ極秘』(非公式)
1986年4月25日…春だった。 昨年の葉の下からおどおどした青いサクラソウの花弁が顔を出しており、 2歳になるサーシェンカは、一つひとつのその花のまわりにしゃがみ込んでいた。 私たちは知らなかった、そして誰も知らなかったに違いない
2014-05-15 00:26:09数時間後にこの土地でわれわれを永遠に変えてしまい、この古代からの素晴らしい土地や森や野原や草原を変えてしまうことが起きようとは。 チェルノブイリ以前の生活と以後の生活に分けられることになろうとは。
2014-05-15 00:32:01それ以前。そしてーそれ以降に。 この世のことはもはや1986年4月26日午前1時24分以前のようでは決してあり得ない。
2014-05-15 00:32:59公式には如何なる報道も伝えなかったが、チェルノブイリに近い、キエフ、ジトーミル、チェルニゴフ市では日毎にパニックが拡大… 薬局からヨード剤が消えた。多くの人が身を守れると考え服用…原液のままで。公式には医学界は沈黙していた。
2014-05-15 00:36:47春の祭典メーデーは例年のようにどの都市でも行われた。暑い日だった… 子どもたちは民族衣装を着て通りで踊った。演壇には共産党政治局員、政府要人、来賓たちがパレード参加者に挨拶をおくった。 ちょうど同じ頃、高級官僚の子どもたちは、飛行機で避難するため空港に大急ぎで向かっていた。
2014-05-15 00:43:45中央紙プラウダは毎日まるで万事OKであるかのよな記事という形の安定剤を何百万も発行。「プリピャチ川で鳴くナイチンゲール」「原子炉の下からの記念品」…私の同僚たちの見出しを思い出すと恥ずかしい気持ちになる。
2014-05-15 16:30:28今日では、病気の歯茎から出た血によるこれらの「記念品」に転義であれ、直接的意味であれ、そこで暮らしている者の多くは文字通り唾をかけざるを得ない。
2014-05-15 16:32:291986年は夏じゅう、ジトーミルには一滴の雨も降らなかったように思う。…原子炉の内部は、無数の砂、鉛、そして何かを呑み込みながら、ついに塞がれ、その「葬儀」が行われた。
2014-05-15 16:35:14亜鉛の柩のそばには放射能に殺された人々の肉親たちが立っていた。原発職員幹部に対する裁判が行われた。それですべては終わったのか。とんでもない。すべては始まったばかりである。
2014-05-15 16:37:08大惨事から3,4年して私たちは、ようやく自分の国で事故の本当の規模、事故についての絶望的な真実の全貌を知り始める。それを知ると、私たちはますます自分のこと、私たちの大きな社会のことを知るようになる。私たちは自分たちの過去についてだけでなく、未来についても知ることになる。
2014-05-15 16:39:44<ルードゥニャ=オソシニャ村 - 偽りのゾーン> 放射能が致死量であるために、私たちの州のナロジチ地区の四つの村が強制的に移住させられたと報道された。人々は安全な区域に移されている、と新聞もラジオもテレビも私たちに信じさせた。
2014-05-15 16:44:144年後には廃村になった請負作業班の村…(1987年夏の終わりごろ)砂の上で子どもたちは騒いでいた。誰かが茎や葉を燃やしていた。そして放射能の灰がここでも菜園や子どもの頭にばら蒔かれていた。
2014-05-15 16:48:00事故直後に、村のまわりでは表土を取り去ることになった。しかし、その後、どうやらいろいろと考え直されたらしく、掘り返されただけだった。「これで村の洗浄は終わった」。1987年秋に石灰による汚染除去作業が行われる事になっていた。
2014-05-15 16:50:05(村の女性たちの話し)村から雌牛が連れて行かれた(92コペイカ/㎏が支払われた)。その牛は、この地区のバザール村へ連れて行かれた。そこは「きれいな」土地で、それらの牛を育てて食肉にするところだった。牛が連れて行かれたのは1986年7月17日。
2014-05-15 16:53:10爆発があった数日はみな、声がかすれた。今年はスグリの実、イチゴを食べることを禁じられた。リンゴはよく。トマトやキュウリも水で良く洗ってと。 ---------------------- 村には畜産場があり、86頭の雌牛と雄牛は113頭。コルホーズ「クラースノエ・ポレーシェ」は、
2014-05-15 16:56:48年間計画も上半期で113%達成していた。ここでは1-1.3t/haの穀物を収穫していたが、この年は 1.8tだった。女性たちの話を聞けば聞くほど、ここでは犯罪が行われている、と私は確信を深めた。 (4年たった今になって初めて、この村は全面退去となることが知られている)
2014-05-15 17:00:47村の新築中の幼稚園と、有刺鉄線に囲まれたキエフ州のボベル村とウラヂミロフカ村とはすぐ近くにあり、畑は有刺鉄線で接している。それほど遠くないところにゴルビエブィチ村がある。女性たちが私に話してくれたところでは、そこに新しい住宅が建設された。
2014-05-15 17:04:48ところが、村を追われた人々はそこには住まなかった。しばらくは無人のままだった。そこにやがてコルホーズ農民たちが移り住んだ。そこからチェルノブイリまでは60キロ。死の30キロゾーンの30キロ手前である。
2014-05-15 17:07:53現在ルードゥニャ=オソシニャ村は影も形も無い。即時移住の政府決定が出されたのである。即自といっても、偽りの数年後のことである。罪深い、偽りの数年後の。
2014-05-15 17:10:07当時私は、それが私の手に余るものであっても、ジャーナリストとして自分の調査を続け書こうと決意していた。「グラースノスチ」だけがこれらの人々を救うことができた。
2014-05-15 17:13:37