「抑留」と「少年兵」と (あるいは「日中貿易史」)

これはシベリア抑留の話ですが、中国でも八路軍の少年兵となった方がおりまして (有名なのは「ぼくは八路軍の少年兵だった」の山口盈文氏) 「少年兵」とはどういう位置づけだったのかを探るきっかけにまとめました。
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SY1698@12/31東3-ウ30b @SY1698

こんなのおれと会ったことのある人間の一部しか聞かされてないから、ガチで難問じゃねえかw

2016-01-10 12:58:00
pata @ib_pata

@SY1698 当時の中共は岸・佐藤兄弟はどうも苦手だったような気がします。岸政権の時に長崎国旗事件が起きたし、佐藤政権は沖縄返還で米国べったりで、日中貿易は衰退しまくっていたんじゃないでしょうか。そこに日共を追んだされた徳球一派の生き残りの反米愛国の毛派がからんだりしてw

2016-01-10 13:07:45
SY1698@12/31東3-ウ30b @SY1698

@ib_pata その通りで高碕達之助亡き後のLT貿易は衰退の極みでした。さらにポンド切り下げで日中貿易は大打撃を受けており、そのような中なぜ日中専門商社を立ち上げたか気になっていたのですが、そういう分脈であれば少し見えてくるのも事実です

2016-01-10 13:10:19
SY1698@12/31東3-ウ30b @SY1698

最大のヒント: 創業者は八路軍上がり ただし満蒙開拓青少年義勇団上がりではない

2016-01-10 13:12:06
pata @ib_pata

日曜美術館で紹介されていた高崎美術館の大塚勉展いきたいが…

2016-01-10 13:12:56
pata @ib_pata

@SY1698 商社なんて10個のうち2つも当たればOKみたいなところもあって、ガタガタだったから、かえっ逆張りしてみた、みたいなこともあったりしてwどうなんでしょw

2016-01-10 13:15:03
SY1698@12/31東3-ウ30b @SY1698

@ib_pata たしかに日中専門商社は零細企業が多かったと言います。それで長崎国旗事件とポンド切り下げ時に多くが潰れたようです。その代わり割当受けられればボロ儲けらしかったです

2016-01-10 13:17:27
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