臓器移植と脳死--「人の死をどう考えるか」
医師になった人は何をめざして医師になったのか。科学者になることをめざして医師になったのなら,科学の物語の中に押し込まれてもしかたないが,みんな科学者をめざしていたのだろうか。
2010-11-18 15:52:58@kokato2010 ご意見有難うございます。普通の死ですら見る機会が減っている(無縁社会の割に)ので、実際に脳死になった人を見ることは少ないと思います。だからこそ臓器提供について考えなさいといっても実感すらわかなくて当然なのかも知れないですね。
2010-11-18 15:53:02@ynabe39 つまりその「人を救う」ということが頭から抜け落ちてる(いつの間に)医師が多いという悲しい現実がそこにあるのでしょう。或いはその人を救うということから思考が暴走してしまうことが。
2010-11-18 15:56:19ウシの研究をやる時に「ウシの定義」が科学外部からの外挿なしに「科学的」にできるかなあ? 「100人に聞いて全員がウシだというものをウシだとする」みたいな手続きふまないよね普通。
2010-11-18 15:58:16「科学者がやってる疑似科学」についてはそうですね。RT @dice_k_maeda その定義ですと「疑似科学」も「科学」の範疇に入ってしまうような気がします。
2010-11-18 15:58:50「疑似科学」についても,結局科学はなにが疑似科学であるかを科学内部的には決められないようにも思う。なにかがわざわざ「疑似科学」と言われるには「科学の文法に沿わない」ことだけじゃなく「それが現に社会的に流布してなんらかの社会的被害を生んでいる」ことが必要なようにもみえる。
2010-11-18 16:01:07@aonamida_pencil ぼくも脳死の現場に直面したことがないのにも関わらず、ロジックだけで捉えていたので反省しました。生命に関わるすべてのことは、理屈で扱ってはならないですね。
2010-11-18 17:30:24そです。科学の持つイデオロギー中和機能を活かして公共的なるものを担わせる RT @ynabe39: @tikani_nemuru_M 特定の物語を特別な地位に置くことで,その他の物語を相対的に等値化してしまうということですね。実際科学がそういう役割を果たしていることは否定できない
2010-11-18 21:29:31@ynabe39 で、個々の「物語」は自然(じねん)に任せてしまうのが、僕の好みですね。公共的なるもの(メタ物語)は科学と人権に任せて、「物語」はそれぞれ勝手に仲間内で紡げばよいのでは?
2010-11-18 21:32:20@kokato2010 自分も最初は理屈で語って今とは逆に移植推進をしていました。現実を知ることは時に残酷だと思います。
2010-11-19 13:22:41