【三国志】石亭の戦い

曹休が大敗を喫した石亭の戦い。 ちょっと考えたので、適当にまとめにつっこみました。 余裕があったらまとめの整理をします。
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Jominian @Jominian

石亭の戦いは、全体の流れとしては、賈逵案→司馬懿案への変更→曹休の大敗 というものだろうと思う。

2014-09-08 17:17:51
陸合 @Rieg__Goh

@Jominian 司馬懿は江陵へ向かったと思ってました。従江陵とあったので、変だなとは思いましたが。一般的には曹休の一人舞台だとされてますが、深い話ですね。

2014-09-08 17:41:12
Jominian @Jominian

太和二年、曹叡は南征を企図し、司馬懿、曹休、賈逵それぞれに諸軍を預けて南下させた。作戦は、豫州より真っ直ぐ南下することで孫権に救援の的を絞らせないようにするという賈逵の案に沿うものだった。(賈逵伝) pic.twitter.com/pW0YTQxZTX

2014-09-08 18:36:55
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Jominian @Jominian

賈逵の案に従い行われた曹叡の南征は、曹休からの周魴内応の報によって変更されることとなる。これにより、曹休が皖を越えて深く進めることが確実になり、司馬懿は目標を江陵から夏口へ変更し、曹休は皖城から尋陽へと変更することとなった。合わせて賈逵は曹休の後詰とされた(晋書宣帝紀、曹休伝)

2014-09-08 18:39:51
Jominian @Jominian

曹休の尋陽までの前進は多くの幕僚に危険視された。しかし、呉軍が江夏の安陸に軍を進めたこと、機を逸して周魴の内応に乗じられなくなることを考慮し、曹休は一気に廬江を南下した。張郃も関中より動員され司馬懿に合流した(蒋済伝、張郃伝等) pic.twitter.com/a7zmQHhl7q

2014-09-08 18:42:20
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Jominian @Jominian

太和二年の戦役において、司馬懿は大型戦艦を以って夏口へ前進しようとしたが、沔水が浅くなり前に進めずにいた。また、周魴の内応が偽りであり、曹休を誘い出す罠だったこともあり、曹休は皖で持久することができず、早々に敗北することになった。

2014-09-08 18:47:54
Jominian @Jominian

石亭の戦いにおいて、満寵伝では満寵が夏口へ進むことになっており、これは賈逵伝の記述と一致する。司馬懿の前進停止も、目標を夏口に変更し、張郃とともに船団で下ることにしたことに伴う措置とすれば、賈逵伝の江陵へ向かった記述と符合する

2014-09-08 18:50:24
Jominian @Jominian

石亭の戦いについては、蒋済の言った「朱然らが上流にあり、曹休の後方に乗じるだろう」という発言が、依然としてよく分からない。

2014-09-08 19:56:47
Jominian @Jominian

沔水は、呂后三年の夏に氾濫し、建安二年九月や建安二十四年八月にも氾濫している。太和二年九月頃はどうだったのであろうか?

2014-09-08 20:06:12
Jominian @Jominian

石亭の戦いは、石亭方面以外の戦場の様子が全くと言っていいほど書かれていないのが厄介だな

2014-09-08 22:33:47
Jominian @Jominian

満寵伝にある、「孫権が大いに兵を整え出兵しようとしている」と呉の降人が語ったという件、時期的に韓綜ではないだろうか。また、この時の孫権の目標は江夏でも襄陽でもなく西陽である。賈逵が武昌まで道を通そうと述べたのもこの時期だ。孫権の目が豫州に向いたことを、南征前に魏は知ったということ

2014-09-08 23:18:50
Jominian @Jominian

西陽からだとしても、淮水を通って夾石に至るには500km近くある。急いでも1ヶ月くらいはかかるだろう。曹休の敗北が九月頃なので、七月までには賈逵は廬江に向かっていたと思われる。

2014-09-08 23:26:12
Jominian @Jominian

孫礼は琅邪太守として曹休に従っている。東莞太守は賈逵に従っている。徐州の地方軍は曹休と賈逵に分割されたのか。過去の遠征では賈逵を含めて曹休が従えていた。石亭では「豫州を賈逵が率いるばかりか、徐州の軍まで奪われた」と曹休が感じたのかもしれない。そしてそれが賈逵への憎悪を増幅したか

2014-09-08 23:35:23
Jominian @Jominian

実は、曹叡即位直後に孫権が企図した豫州攻めは、諸葛亮の北伐に呼応して行おうとしたものだったんじゃないのか?

2014-09-08 23:38:58
Jominian @Jominian

周魴の偽降によって曹休をおびき寄せつつ、いつも通り江夏に出兵する振りをし、沔水の状況から大型船による南下が難しいことを見越した上での皖城への集結。孫権もなかなかの策士だが、この作戦の全体を計画したのは誰だろうか?

2014-09-08 23:47:27
Jominian @Jominian

太和二年の南征の際、賈逵は徐州からの増援と、中軍の満寵や朱霊を指揮下に加えて南下した。満潮や朱霊などは、もともと賈逵の麾下にはなく、賈逵はそれ以前には都督でもない。賈逵の率いた諸軍は、遠征に合わせて集められたものである

2014-09-09 00:06:51
Jominian @Jominian

ああ、分かりにくいが、満寵は石亭の戦いの時も汝南太守だったのかな?だとするともとより豫州刺史賈逵の麾下だな

2014-09-09 00:18:26
Jominian @Jominian

太和二年の春に呉からの降伏者が訪れ、孫権北上を伝えたとして、満寵がその目標を西陽と看破したのは、賈逵主導による道路の造成があったからではないか。北上するとすれば、豫州から武昌への直通道路の危険性を意識したものだというのが、満寵の根拠だろう。

2014-09-09 00:34:19
Jominian @Jominian

太和二年春の孫権の北上が、諸葛亮と協調したものでないとすれば、これすらも周魴の策を成功させるための措置だった可能性もあるな。周魴は曹休への手紙で、孫権が孫奐を安陸に派遣することを述べ、孫権は実際にも目眩ましでそうしている。西陽への北上くらい、策のためにも実施しそうである

2014-09-09 00:45:17
Jominian @Jominian

正始四年に司馬懿が皖城を攻撃した際、論者は諸葛恪の駐屯を囮と見た。石亭の敗北を意識している。だが、司馬懿は「敵が得意な水戦を企図すれば城を放棄せざるをえず、城を固守すれば冬には水がなく、敵は陸戦を強いられることになる」として南征を行った。石亭の敗北を教訓としながらこうも違うとは

2014-09-09 01:05:33
Jominian @Jominian

晋書宣帝紀における正始四年の司馬懿の皖城攻撃に関する発言から分かることは、孫権は皖城から夾石までの河川や湖を使い、曹休軍を分断したということである。恐らく皖水や樅陽河、大龍水などを使ったのだろう。

2014-09-09 01:09:01