- misonikomioden
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風の声までの方法をローマで鳥を見たシリーズでは断ち切りつつ継続している。 以前から彼が考えてることだろうけど、前の方法自体を見直し螺旋階段を登る。方法なんだけどメタレベルを考える方法。 しかしその踏み破る方法が鳥を…では違う。
2014-10-18 14:47:41方法にのせ生前と表出するんでなく、なんとかしなくちゃいけないという感じ。 自分という身体の奥底から沸き起こってくるもの、彼はそれを表に出したいという(自覚的)ことでもある。 身体の氾濫。
2014-10-18 14:50:02その身体の氾濫が、見るものを突き動かす。 画家の身体が俺にも主役をはらせろと出張ってくる。それに対し観客が拍手喝采する感じ
2014-10-18 14:50:33絵画然とした絵画は退屈だ。 ちまちました絵、どうでもいい物語の絵、あるいは観念だけの絵画、そんなのもう沢山だ、と。 だから身体の氾濫を観客は歓迎する。
2014-10-18 14:51:18しかし体育会系的な身体の氾濫でない、身体の氾濫。 絵画を根本的に変えるものがほしい。 上辺でなく、絵画の構造でなく、「絵画の構造それ自体」を変えなくてはいけない。
2014-10-18 14:52:27ローマで鳥…を描いた時、絵画の構造それ自体を変えることに突き当たった。身体の欲求として起こった。 千葉が村松画廊でそれを最初に見た時に感じた切迫感はそれだった
2014-10-18 14:53:38もう一つ作品を取り上げる。 2011.3.11以降の作品。 災害直後から堀浩哉は被災地をカメラを持ち訪れている。 被災地の海水面を映像で撮影し、その写真を引き伸ばしその上に文字をびっしり埋める。 それを見たのがミヅマアートギャラリーでの個展だった。
2014-10-18 14:55:19堀のパフォーマンスは鑑賞者も参加者にならざるを得ない。 鑑賞者に堀が近づき囁くなどする。 それは絵画行為を内側へ閉じさせないため。彼が言う境界線上のあるためである
2014-10-18 14:56:33写真とともにある平面作品。 初めて見た時、現実と記憶を行き来する=往還する、重層的感覚を生んでいる。 現実とは震災、記憶とはそれを忘れないことつまり言葉。
2014-10-18 14:57:23しかしそれではメッセージしかみてない。 地と図の地では、海面らしきものの場合文字が不鮮明、水面らしきものの場合は文字がよく分かる。 これはメッセージと震災がつながってるけど分離している。 絵画的空間・造形的空間でない、空のような何もない空間が広がっている
2014-10-18 14:59:15この写真メッセージ作品は絵画作品とつながるが、異なる。 形式的に違うというだけでなく、絵は空のような空間を表現しようとしているが、これはメッセージと震災に橋を掛けようとする相当矛盾した行為を分かってやっている。
2014-10-18 15:00:12矛盾を批判するだけでは作品の輝きに気づけ無い。 彼をそのように突き動かしたものの在処、それを知りたいし、その身体の欲望が圧倒している
2014-10-18 15:01:10堀浩哉はその身体の欲求を許容している、許容せざるを得ない。 分離したまま繋がっている、つながったまま分離している。 従来の作品評論では矛盾で失敗だが、そうでないと思う。良い作品なのだ。
2014-10-18 15:01:58海水面と言葉が異質なのだがくっついている。一方で海水面が地だが手前に出てくる。海水面が言葉のところまで来て図にもなっている
2014-10-18 15:02:43逆に図である言葉が地の海水面に着水しようとしている。 相互関係が隔たっていない。 造形面でも震災面でも。 意味的にそうでありながら空間が生まれている。
2014-10-18 15:03:56空間が出てくるのは堀には副産物かもしれない。 海水面という造形的にも心理的にも異なるものが存在している。 心的な構造がそこにあり、その差異もそこに組み込んでいる。 心的レベルで踏み込んでいる。
2014-10-18 15:05:05心的に突っ走るのは美術としてマズいので、造形的に抑制をきかせている。 パフォーマンスの時、パフォーマーが鑑賞者の耳元で直接囁くのとは異なる。
2014-10-18 15:06:10