佐賀戦国研究会による「もうひとつの”西の関ヶ原”」「関ヶ原西軍敗北後の流れ」

佐賀戦国研究会さんのアカウント@sagasengokuによってまとめられた、龍造寺鍋島視点からの関ヶ原の経緯をまとめさせていただきました。 平成26年12月27日、佐賀城本丸歴史館にて質疑応答会が開催されます。龍造寺鍋島への疑問や興味を持つ方は是非いらしてください!
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佐賀の戦国史 @sagasengoku

■関ヶ原西軍敗戦後の流れ ⑨(柳川の歴史4 近世大名立花家 P.179~)の■慶長5年(1600年)西軍が関ヶ原で負けた事を知った立花宗茂(当時は親成と名乗っているがここは宗茂で統一します)、9月下旬、一旦大坂城まで退く。毛利輝元に大坂城籠城を説いた説あり。程なく船出、九州へ帰る

2014-12-05 23:28:34
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 10(柳川の歴史4 近世大名立花家 P.179~)の■慶長5年(1600年)10/10、この頃には柳川城に戻ったと思われ家臣へ一斉に大津城攻めの感状を与える。軍勢の士気を鼓舞し、今なお立花家は臨戦態勢にあった。

2014-12-05 23:36:54
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 11(柳川の歴史4 近世大名立花家 P.179~)の■慶長5年(1600年)10月上旬、黒田如水迫る。石垣原合戦→豊前制圧→筑後方面へ。久留米城開城、柳川城の東方面、水田へ布陣。(すでに徳川の天下は決定的、黒田如水が「筑後を我がものに」と思う状況にない)

2014-12-05 23:47:39
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 12(関ヶ原合戦と九州の武将たち:八代の歴史と文化8、八代市博刊・P101~)慶長5年(1600年)9/15、加藤清正軍、石垣原合戦へ向けて熊本を出陣。玖珠郡まで進んだ時終結を知り、軍を返して宇土城攻め。長引き、10/17頃、小西勢降伏・八代城宇土城落す

2014-12-05 23:58:03
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 13 ■慶長5年(1600年)10/17以降~10/20、八代から加藤清正軍が柳川へ移動。10/17頃は、黒田如水軍は筑後内に在り。10/18、城島城周辺へ鍋島直茂が本陣を構える。10/19城島城から鍋島南下 pic.twitter.com/uQKOXwFNq1

2014-12-06 00:08:11
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 14 (古郷物語 中巻:黒田家の記録書)■立花宗茂「この上は如水の陣へ突き掛かり、一戦で埒を明かそうぞ。石田治部負けた今、運が開く事はもう無い。最期の戦だ、みな一歩も退かず討死し、道雪公以来の武名を高く挙げようぞ!」立花家中、静寂の決意あり。

2014-12-06 00:22:59
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 14 (古郷物語 中巻:黒田家の記録書)■立花家中、一枚岩ならず。小野和泉派、薦野三河派の対立。小野は古参で武名高い猛者だが振舞いが粗忽。薦野は、武功は小野には劣るが良識人で筋を立てる者。迫る鍋島軍を前に、2派の先手争いが発生してしまう。

2014-12-06 00:31:01
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 15 (古郷物語 中巻:黒田家の記録書)■鍋島勢は水濠の多い地形を、主要な濠を埋め橋を掛け徐々に柳川に迫って来ていた。この作業に薦野三河派の者ら、夜明けの奇襲を掛け鍋島50人程討取る。武功を先越されて悔しがった小野和泉派、翌日密かに奇襲に出るも死傷者多数

2014-12-06 20:23:04
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 16■江上八院の戦い開戦:★地形、川を挟むような対陣。つまり橋を渡った方が背水の陣。早朝、立花軍先手の武将一部抜け賭けで渡河、鍋島茂忠勢を急襲。混戦。なし崩しの開戦で立花三太夫が追って猛突撃、小野和泉(二番隊)は戦況にひきずられ橋を渡り、鍋島勢へ特攻。

2014-12-09 00:33:10
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 17■八院。開戦参照:saga-otakara.jp/search/detail.… 鍋島先陣:鍋島茂忠(深堀茂賢)大苦戦。立花勢:立花三太夫と同じ位に安藤津之助も大奮戦(直茂公譜考補)歴戦の小野和泉の攻めを前に、鍋島先陣崩れかけるも、先手の大将、鍋島主水(平五郎)不動。

2014-12-09 00:41:22
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 18■中八院。立花勢の猛攻を前に、自ら槍を振るっていた鍋島茂忠、混戦に紛れ消息不明に。先陣崩壊の危機と聞いた本陣の鍋島直茂は、先陣に退却の伝令を飛ばすが先陣大将鍋島主水、無視。徳川への忠功を示すため、弟の鍋島茂忠が討死後、兄の主水も命を犠牲にする覚悟有。

2014-12-09 00:48:40
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 19■中八院。10/20(早朝~夕方)小野和泉ら立花勢の突撃に鍋島(平五郎)主水落命の危機、直茂から数度の退却命令を無視も、直茂厳命「主命である。主水退け」主水は悔しさで「尻くそ!」と怒鳴ったと言う。軍令で動けなかった鍋島二陣・三陣、前進し鉄砲構え。

2014-12-09 18:09:29
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 20■中八院。10/20(早朝~夕方)立花先陣勢は鍋島先陣を崩しかけたが、背水の状況で戦場の左右から、鍋島ニ陣(武雄:後藤茂綱)三陣(須古:龍造寺信昭)が包囲。ニ陣:後藤茂綱勢の鉄砲300丁が火を噴くと戦況はみるみる一転。立花先陣は前進ならず討たれていく

2014-12-09 18:15:34
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 21■中八院:形勢逆転。【古郷物語 中巻(黒田家の記録書)】「苦境でも、すごすごとは退けず踏みとどまる味方の様子に、後方に居た小野和泉怒り(退けと言っている!戦慣れぬ者どもはこの有様だ!さっと掛かればさっと退くもの、わしが単騎で皆を呼び帰して参る!」

2014-12-09 18:31:16
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 22 ■中八院:形勢逆転。【古郷物語 中巻(黒田家の記録書)】単騎で駆けだした小野和泉だが、馬印を持っていたので程なく「和泉殿が掛かられた!遅れとるまじ!」とて後続が追った。/ 西から武雄衆の後藤勢が鉄砲を浴びせ、東から須古衆が立花勢へ掛かり完全包囲窮地

2014-12-09 23:44:55
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 23 ■中八院【直茂公譜考補十】一斉砲火を浴び「小野・立花が軍兵これにあたりて将棋倒しに異ならず」、小野和泉ら70騎程が包囲の中奮闘、特に立花三太夫、馬上にて長槍を振るい鬼の如く突いて廻り「その振舞普通に越て敵も味方も目を驚かす。味方士卒死創数を知らず」

2014-12-11 22:02:15
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 24 ■中八院【直茂公譜考補十】鬼神の奮戦三太夫も遂に敵中深く、鉄砲に当たり馬から落ちる所、鍋島勢の下人寄りて首を取る。【筑後 第三巻第十号 柳川号】馬も疲れたか、向こうの堀岸を踏みかけ、馬もろ共堀の中に落つyoutube.com/watch?v=USMVet…

2014-12-11 22:13:17
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 25 ■中八院【八院合戦と水田会見(黒田如水加藤清正)の由来:(S52刊)】黒田如水に備えて東にいた立花吉右衛門隊300、窮地と聴き八院へ駆けつけ、鍋島2・3陣の横腹から突き掛かり味方の退路を作る。小野和泉、鉄砲が左胸下を貫通のほか肢に深手の重傷、退却。

2014-12-11 22:29:34
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 26 ■中八院【八院合戦と水田会見(黒田如水加藤清正)の由来:(S52刊)】一時鍋島を撹乱した立花吉右衛門隊、味方が退いていく頃、堀溝を隔てて鍋島側から弓矢・鉄砲を雨あられのように浴びせられる。吉右衛門、頬当を左から右へ鉄砲が貫通・落馬。家臣が引上げ退却

2014-12-11 22:36:51
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 27 ■終結、語られぬ惨劇:『柳川の軍勢前後を囲まれ一戦に敗闕してニ橋の大堀に没入し数百人の屍を埋めて平地となす(筑後地鑑)』『(立花側討死)侍三十余人、疵を蒙る者は数を知らず、足軽は数百人討死しけり(直茂公譜考補十):鍋島側討死、200余人』

2014-12-14 18:37:28
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 28 ■終結、語られぬ惨劇:先に進みたる兵共残らず討たれ弥太郎・吉右衛門、深手余多所負ひ(中略)歩の者肩に懸けて退きければ逃尻を打たれながら死に残りの者共見苦しき体(中略)其跡に肥前の者共堀へ落ちたる敵共、引き上げ、引き上げ、首を切りふびん(古郷物語中)

2014-12-14 18:46:34
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 29 ■10月20日夕刻、立花勢敗走後、この合戦の検使役:加藤清正・黒田如水から停戦指示が鍋島直茂へ到来。「勝負はこれまで。我々首実験の様子委細内府様へお伝えする。今は兎も角も停戦されよ」との事で、鍋島勢は軍をまとめ、本陣を酒見城へ移動。(直茂公譜考補十

2014-12-15 22:45:20
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 30 ■立花宗茂書状『戦い互いに勝負これなく候、しかりといえども敵大勢、味方は無人ゆえ手負戦死歴々について、居城きわまで諸勢押し寄せ詰陣候、しかるところ京都へ残し置き候使まかり下りまずもって御赦免の通仰せ出だされ候のあいだ、加主・如水へ理を通し和談に』

2014-12-15 22:53:52
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 31 ■鍋島直茂書状『八郎院表へ敵ニ三千出合防戦候、勝利を得、馬乗り三百余討ち捕え蒲池へ追い籠め、八郎院へ陣取候。八代表あいすみ、(加藤)主計殿近日着陣なさるべきの由。その意得候。なお、面拝を期し候。恐々謹言 鍋加守 十月二十日 直茂(花押)』/吉村文書

2014-12-15 23:05:20
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■関ヶ原西軍敗戦後の流れ 32 ■10/20先手合戦後鍋島立花停戦。宗茂自らは戦闘なし。23日に家康から立花へ赦免の御朱印状が到来か(柳川の歴史4)24日、戦友加藤清正と宗茂交渉、人質出す。25日、柳川開城決定、島津攻め先鋒に命じられる。26日頃、宗茂家中、南関へ下向。城は加藤預

2014-12-17 23:14:56