沈黙した猿#2
(前回までのあらすじ:廃業寸前の音楽家、ギルダーの住む村に見世物の集団が現れた。彼らは何故か猿の面を被るという奇妙な集団だった。そして、踊りと共に人生でいちばん重要だった音楽が聞こえるという公演が始まる。だが、ギルダーは何の音楽も聞くことはできなかった)
2014-12-22 20:28:49公演は終わった。踊り子は動きを止めて、また同じように音もなく花道を歩いてテントの奥に消えた。ギルダーは呆然としていた。彼の着ている薄手のシャツに脂汗がにじむ。やはり自分は音楽を失ってしまったのか……そんな絶望がギルダーの中に生まれる。彼は廃業寸前なのだ。 31
2014-12-22 20:35:00他の観客はみな自分の聞いた音楽について興奮しながら語り合っている。だが、猿面の男たちに追い立てられると、しぶしぶテントの外に出ていった。ギルダーは釈然としなかった。金を払って、何故絶望を味わわなければならないのだろうか。彼はテントから出た後、振り返る。 32
2014-12-22 20:41:19視線の先には、黙って直立しているもぎりの男がいた。やはり、猿の面を被っている。「すみません、聞きたいことがあるのですが」 「何でしょう」 「さっきの公演、僕は何の音楽も聞くことができませんでした。これはどういう……」 すると、もぎりの男は慌て始める。 33
2014-12-22 20:45:43「しばしお待ちを」 そう言ってもぎりの男は別の男を呼び寄せ、ギルダーをテントの奥へと案内させた。そこには豪華な白い服を着た先程の座長風の男と、衣装を着たままの踊り子が休憩していた。そのときは二人とも赤い猿の面をつけていた。「彼は、音楽を幻聴できなかったというのです」 34
2014-12-22 20:50:06ギルダーを案内した猿面の男は、そう短く言っただけで自分の持ち場へと戻っていってしまった。テントの裏で、気まずそうに立ちつくすギルダー。彼を、猿の面の奥からじっと見つめる座長と踊り子。しばらく沈黙が続いた。やがて踊り子が話し始めた。「あなたは心を閉ざしています」35
2014-12-22 20:55:16「あまりにも頑丈に心を閉ざしているため、心の奥にある音楽が聞こえなかったのでしょう。チケット代は返金いたします。チケットの半券はありますか?」 ギルダーはポケットに入れてあったしわくちゃの半券を取り出す。踊り子は近くの机に移動すると、何かの判子を押した。 36
2014-12-22 20:59:09「チケット売り場で返金に応じます。このたびはすみませんでした」 踊り子は猿の面を被ったまま、頭を下げた。そして頭を上げ、静かに言った。「非常に危険ですよ、心を閉ざすということは……何らかの解決策を講じないと、あなたは腐っていくだけです」 ギルダーは黙って踵を返す。 37
2014-12-22 21:03:19そんなことは分かっている。いつか、過去との決着をつけないといけない日がくる。今日はいい日だった。その事実に……音楽を失った日から変わらなかった事実に向き合う心の準備ができた気がした。こういうことは自分で何度も自分に言い聞かせても変わらないのだ。 38
2014-12-22 21:10:46気付いていながら、気付かないことにしていた重大な障害。そういうものは、誰かの指摘によって初めて「その気になる」というものだ。ギルダーは少し心が晴れやかになった。動こう、そう、動こうという気になったのだ。彼はチケット売り場で半券を代金と交換した。39
2014-12-22 21:32:42しわくちゃの紙幣はしわくちゃの半券になり、再び元のしわくちゃの紙幣に戻った。だが、ギルダーの中では確かに何かが変わろうとしていた。 40
2014-12-22 21:36:38ギルダーが家についた頃には、夜になっていた。村の市場でのんびりと買物をしてから帰ったのだ。彼の家は藁葺きの小屋で、部屋も一つしかない粗末なものだ。彼は住処や家具にお金をかけなかった。ただ、彼の家の中には立派なチェロがひとつだけあった。しかし、まだ弾く気にはなれない。 41
2014-12-26 19:28:41低いテーブルに買ってきたものを並べて一息ついた。市場を歩きまわったため、座った途端疲労がどっと出てくる。彼は机の上の果物や雑貨、消耗品を眺めていた。久しぶりに購入欲を満たしたのだ。これらのモノが自分のモノになった。そういう買物の楽しさをゆっくりと噛みしめる。 42
2014-12-26 19:33:05ギルダーは音楽以外に趣味を持たなかった。その音楽でさえ、最近は拒絶している。そのため、彼の楽しみは広場のベンチでぼーっとすることと、買物で購入欲を満たすこと。二つだけになっていた。昔は彼も音楽や恋に情熱を捧げていた。そう、恋……ギルダーは棚の上を見上げる。 43
2014-12-26 19:41:02そこには女性の写真が写真立てに入れられて埃を被っていた。赤毛の女性で針金のような美しい直毛をしている。彼女がイザベリだ。ギルダーの先輩である街の音楽家だった。だが、今は彼女は歌を歌うことは無い。もう、彼女の声を思い出せないほどの時間が過ぎてしまった。 44
2014-12-26 19:46:18「イザベリ、僕は明日君に会いに行こうと思うんだ」 ぽつりとギルダーは呟いた。そしてゆっくりと立ち上がり、イザベリの写真を手に取った。指で埃を拭うと、彼女の笑顔が当時のまま輝いて見えた。彼女はいつも笑っていた。しかし、それもすでに過去の話だ。もう彼女に笑顔は無い。 45
2014-12-26 19:52:25ギルダーは写真を元に戻した。イザベリはもう歌うことは無い。彼女は音楽と声を失い、村はずれの療養所で静かに暮らしている。もう彼女には音楽は関係ない。どんな旋律も、どんな歌声も、彼女の未練をかきたてるものでしかなくなってしまった。それでも、ギルダーは会いに行こうと思った。 46
2014-12-26 19:57:57閉ざされているというギルダーの心。それを開く鍵は、イザベリ以外には考えられなかった。だからこそ――「会いに行く。会いに行くんだ」 決意が鈍らないように、ギルダーは棚から酒瓶を取った。半分ほど琥珀色のウィスキーが残っていた。少しずつ、舐めるように飲んでいたものだ。 47
2014-12-26 20:03:24ショットグラスになみなみとウィスキーを注ぎ、ストレートで舐めるように飲んでいく。喉が暖まり、昔の熱を取り戻したように思えた。そういえばしばらく酒は飲んでいなかったな、とギルダーは今までの乾燥した日々を振り返った。思い切って鼻歌でも歌ってみるか? 48
2014-12-26 20:08:12そうだ、声があるなら言葉を出せる。息ができるなら鼻歌を歌えるじゃないか。ギルダーは少し楽な気持ちになった。そして、簡単なドレミファソラシドを歌う。脳裏で何かが弾ける感覚。心地よい酩酊感。彼はショットグラスを飲み干し、ランプを消してベッドに身を投げた。 49
2014-12-26 20:12:34まるで海に飛び込んだような感覚。ギルダーは星の海に揺られていた。いまだ音楽は聞こえない。それでも良かった。ギルダーは星の瞬きに音楽を感じた。星の明滅にリズムを感じ、今なら音楽を取り戻せそうな気がした。しかし、それは明日でも良いと彼は思った。焦る必要は無い。 50
2014-12-26 20:18:40