1945年6月17日 米潜水艦が牡鹿山丸の生存者に行った事について

乗船を撃沈され、筏で漂流中の生存者の前に現れた米潜水艦が何をしたかについて調べた結果のまとめ。
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Job @Tryunicht

1945年6月13日に能登半島沖で沈んだ牡鹿山丸の菅原船長の手記が ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/sir… にて公開されています。

2015-01-09 09:31:21
Job @Tryunicht

その頃の様相を伝える興味深い話ですが、ご本人は伝馬船で佐渡ヶ島に救援要請に向かっていたため、伝聞に依ったと思われる筏に乗った生存者と米潜水艦との遭遇の部分の話に誤認があるようです。

2015-01-09 09:31:41
Job @Tryunicht

船長の手記では6月17日朝からに4隻の潜水艦が筏の間を数時間走り回ったため溺死者が続出、午後に現れた海防艦(後述の労苦体験手記では駆潜艇とも駆逐艦とも)2隻を見た潜水艦が逃げ出し、その後に救出されたと書かれています。

2015-01-09 09:32:18
Job @Tryunicht

当時日本海に侵入した潜水艦は9隻が3群に分かれて行動しており、生存者が漂流していた日本海南東部を担任したのはUSSタニー、USSスケート、そして牡鹿山丸を撃沈したUSSボーンフィッシュの3隻。

2015-01-09 09:32:38
Job @Tryunicht

当日の哨戒記録では各艦別個に行動をしており、漂流者と接触があったのは タニーのみで、前日に一度発見したとする筏から下士官一名を捕虜にしています。

2015-01-09 09:33:20
Job @Tryunicht

捕虜を取ったのは早朝で、敵影発見の記録もなく、午前11時前に哨戒コースに戻っているため日本軍艦艇から逃走したというのも違うようです。

2015-01-09 09:33:41
Job @Tryunicht

このタニーと漂流者の接触の記録は平和展示資料館の労苦体験手記6巻にある、実際に筏で漂流して敵潜と遭遇した方の「日本海漂流五昼夜」とも内容が概ね合致します。

2015-01-09 09:34:19
Job @Tryunicht

また、普通に考えて漂流者を殺す気なら銃撃すれば速いのに、弄ぶために敵地で白昼何時間も浮上航行を行って艦とクルーを危険に晒すというのもおかしな話です。

2015-01-09 09:34:33
Job @Tryunicht

以上の事から、「6月17日早朝に牡鹿山丸の漂流者の前に現れた米潜はタニー1隻で、捕虜を取る際に周辺で犠牲者が出た事は考えられるが、接触は長くとも午前11時前に終わった」と考えられます。

2015-01-09 09:37:29
Job @Tryunicht

ちなみに海防艦戦記にて沖縄が6月21日に牡鹿山丸撃沈の報を知り約50名を救助とありますが、これは記録が伝馬船側と筏側とも一致しないため17日の誤りではないかと思われます。

2015-01-09 09:38:53