トークセッション「ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち」をめぐるツイートいろいろ
おぶくろ展とAGのトークのあれこれをなんとなく結び付けてしまいそうになるのは、個々の作品を観る自分の眼が弱い所為か、キュレーションの暴力と共闘?のあり方に無自覚だった所為か。
2015-03-02 12:48:41"ここ"と"それ以外"、とか、一時的に場を占めること、場を占めずにはいられない?こととか、そういう見方で、もうちょっと考えられそう。
2015-03-02 12:52:07@oqoom うん。謝金とかの問題はアーティストが言おうと誰が言おうと基本、同じだと思うんだ。アーティストには「このタイミングで?」「そのやり方で?」という公共的提言の仕方を期待する。アレント的な意味における「現れ」の顕現として。
2015-03-02 21:13:49アルバイトとご活動のパーテションにうまく折合いをつけるように、社会活動と芸術活動のパーテションにうまく折合いをつける方もいるでしょう。でもその折合いによってもたらされるのは破綻を排除する無難な継続。
2015-03-03 20:09:52パーテションに求めらるのは相互を都合よく行来きする折合いの扉ではなく、決壊の穴。折合いをつけるためにパーテションが差し込まれるのではなく、決壊をなすためにパーテションを差し込む。
2015-03-03 20:10:36ギアでうまくパーテション切り換えレール敷かれた高速道路を(敢えて)活発に交通させるなら、制限速度超過でコントロールまかり通らなくなっての決壊が求められる。あるいは決壊が単に意図せぬものなら、制限速度に至らせぬ遅速で渋滞、エンストや降車で停止の方がなされることかもしれない。
2015-03-03 20:17:49でも関係者から援助され時に恊働し自主検閲的に遵守される。「アート」なり「作品」という広場を広大に確保するから遵守しましょうと。癒着は致命的。されど多くで癒着は前提のように振る舞われる。ベーシックインカムよろしく「公共性」からは抜け難いと。ミイラ取りはミイラに寄生。宿主と共生。生活
2015-03-03 20:25:44@endo_mizuki たしかに今回そこらへんの必然(切迫)性が浮かび上がってないね。あと僕としては何より「生活者」「生活者としてのアーティスト」というフレーズについての説明がされてなかったのがモヤモヤでした。アレントについては勉強します。面白そう。
2015-03-03 21:31:57@oqoom 一方に私的に勝手にやるアーティストがおり、他方に公的なアートシステムがあり、アーティストは公共性に守られずにむしろ邪険に扱われるという構図。芸術の未来においてはAGの一部が公共の側に周り、「若手」が搾取されたという構図。この構図自体をへんけいさせるべきです。(続く)
2015-03-03 22:05:19@oqoom 僕から提案したいのは、公共性を既存の制度と考えるのではなく作り出すべきものと捉え直すことです。アーティストが理想の公的なる使命を持って「現れ」るときに、その「現れ」方には独自の方法やタイミングなど個別性が宿る。そして、その出現を寛容さを持って認め合う。(続く)
2015-03-03 22:10:35@oqoom その状況をもって、そこが、そこだけが「公共」だ、と言い張る。現実の公共性の改良ではなく、理想の公共性の顕現を志向した方が良いのではないか、と提案します。
2015-03-03 22:12:21@endo_mizuki 個別の作家性ではなくそのような「公共」の顕現に身を捧げる(ハイヴマイントの一角になる)覚悟があるのかってことね。少なくともあの場において。
2015-03-03 22:30:22@oqoom 「あなた」や「わたし」とは誰か? という問いは、こないだのAGのイベントにも通じると思うんです。語りかける対象を考えることは、芸術や社会を包含する「生」に潜在する政治性を考えることでもあって、単に美学的な問題ではない。奥村さんの新作からは、それを感じる気がします!
2015-03-07 10:43:59