蝶と愚者ss

こどもは夜の色をした蝶を追いかける。二度と引き返せないと知っても。
0
てい @orztee

夜の闇を、そのまま型に押し込めて作ったような蝶だった。まるで厚みのない翅を動かしながら、蝶は窓から外へ出て行く。 「嗚呼、蝶が行ってしまう」 こどもが、その後を追って扉を開く。途端、透き通った夜風が吹き抜けた。 夕飯を運んできた母親が、こどもの不在に気付くのは数分後のことである。

2015-03-06 00:44:25
てい @orztee

夜は正しく迷宮だった。こどもは幾度か柔らかい空気の壁としか言いようのない物にぶつかり、その度に鼻を鳴らした。真綿のような柔らかさを持った夜の空気は、刻一刻とその姿を変えているようである。 蝶はその柔らかい空気をものともせず、鉱石の硬さでもって飛んで行く。

2015-03-06 00:49:41
てい @orztee

蝶が吸い込まれた先には、薄ぼんやりとした幻燈の灯りのような光が点っていた。それは、壁や何かを照らしているのではない。夜の空間の中にぽかりと浮かんでいるのである。ちょうど、こどもの身体が収まる程の大きさである。 これは光ではない。穴だ。 と、こどもは思った。

2015-03-06 00:53:34
てい @orztee

こどもは、一見すると光のように見えるその穴の口に、誰かが立っていることに気づいた。その人は、立っていたというより、こどもの視線に呼応して、徐々に人の形をかたどった様だった。それは、青年だった。 「今晩は」 青年の声は囁くようにか細かったが、不思議とこどもの耳には美しく響いた。

2015-03-06 18:50:42
てい @orztee

青年の微笑みに、こどもは安心して頭を下げた。 「こんな夜にどうしたの」 「蝶を追って来たんです」 青年は軽く首を傾けた。 「蝶というと、これのことかな」 尋ねる青年の細い指先にいつのまにか現れたのは、先ほどとは違う蝶だった。こどもが毎晩見る夢の中で、見上げる虹の色をしている。

2015-03-06 19:00:51
てい @orztee

「その蝶ではありません」 こどもの答えに、青年は頷いた。 「君が見たのは黒い蝶だね。しかし、あれはいけない。あれはヒトのタマシイを集めるために飛んでいくモノなんだよ」 「でも、とても綺麗でした。ぼくはもっと追いかけていたいんです」 こどもが頑固に言い張るので、青年は曖昧に笑う。

2015-03-06 19:06:04
てい @orztee

「ならば、ここを通ると良い。この先にはきっと、その蝶がいるだろう」 言うが早いか駆け出すこどもの腕を意外な力で握り、青年は続ける。 「でも、もう決して引き返すことはできないよ。お母さんの待つ家にも、二度と帰ることはできない」 青年の声は冷たい。先程までの暖かさは微塵も無かった。

2015-03-06 19:12:56
てい @orztee

こどもは一瞬躊躇った。しかしそれは一瞬だけだった。 「良いんです」 ぱっと、青年は手を離した。こどもはもう、振り返りもせずに穴の中へと走って行く。やがてその背中が見えなくなると、青年は哀しげに目を伏せた。 「君の運が良ければ、夢を掴むことができるだろう。しかし、悪ければ……」

2015-03-06 19:16:18
てい @orztee

夢に食われる結末を、誰が教えてくれると言うのだろう。あのこどもは正に、かつての彼自身だったのだ。 光の穴が閉じ始める。 青年の姿は既に闇に溶け、まるで最初から何もなかったかのように夜が静まり返っている。やがて遠くでサイレンの音が響き始めると、女の啜り泣きが一晩中止まないのだった。

2015-03-06 19:21:47