津波被災史料の修復について(中間報告)

南三陸町で東日本大震災の津波を浴びた個人宅の史料をお預かりし、修復を進めていますが、このまとめはその中間報告のつもりで作りました。
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京都へ史料修復の打合せに

2015年3月27日、京都の業者さんと打合せに

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

全国各地の博物館や大学等々の協力のお陰で、津波を浴びた東日本の文化財や史料の修復が進み、4年目にしてようやく完了、お披露目の展示も開かれている。それでも、現場にはまだまだ修復を待っている史料が山積している。皆さん、通常業務とは別に時間や資金をやりくりして進めていらっしゃる。

2015-03-27 11:43:52
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

これから打合せをする京都の大入さんに津波被災史料の修復をお願いしている。ようやく終わりそう。この史料との出会いも、偶然とは思えない道筋を経たものだった。それだけに、元の持ち主の方へいち速くお返しすることは勿論、これまで物心両面で支援して頂いた皆様にも報告書を作成してお送りしたい。

2015-03-27 11:49:42

修復史料(和算書)の紹介

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

現在、修復終了した史料の一点を紹介。旧志津川町内で津波を浴びた和算書。年代は、なんと明治28年。この頃まで、宮城県北には和算の教育文化が残っていた。おそらく、この近辺に残った和算書としては珍しいものだと思う。 p.twipple.jp/51tfE

2015-03-27 15:50:25
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

この史料の適当に開いた紙面。船の運賃に関する比例式を解く問題。典型的な関流の数式表現。 p.twipple.jp/Sehe4

2015-03-27 15:53:36
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

これは直角三角形の問題。三平方の定理や相似の関係を用いる問題が多い。 この本だけが和算書として残っていたが、関流の教授内容を考えると、本来はもっと沢山の本があったはず。残念ながら時を経る内に失われてしまったのだろう。 p.twipple.jp/Os8uH

2015-03-27 15:56:45
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

大体、明治の義務教育は小学校までだから、農山漁村の大抵の庶民はそこで学校はおしまい。それでもさらに数学を学びたい人たちは、宮城県北、岩手県南辺りだと和算塾や巡回教師から学んでいた。今から見ても結構そのレベルは高くて、一通り学ぶと、大学一年の積分くらいは解けるようになっていた。

2015-03-27 16:15:57
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

この和算書によって、明治の志津川にも和算教育が残っていたことが明確に。気仙沼辺りの和算家は以前から知られていたので、やはりそういう教育熱心な場所柄だったんだろうなあ、と納得。 それから、こういう史料を紹介することで「うちにもこんな本があるある」という情報も密かに期待しています。

2015-03-27 16:30:41
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

そうか。明治28年というと、翌年が明治の三陸大津波。それによって、三陸沿岸ではかなりの文書や教科書類も流されてしまったんだろうなあ。 今、修復している史料の持ち主の方のお宅は、このときに津波被害は無かったとのことだから、今まで和算書も残っていたわけだ。

2015-03-27 16:40:34
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

さらに 歴史を辿ると、先日も呟いたが、明治35年に八甲田山の雪中行軍遭難事件。この第五連隊は岩手県南、栗原郡、本吉郡の出身者が多かった。今までそのような事を考えたことは無かったが、彼らの周辺には和算教育の雰囲気が残っていたんだ、と。近代軍隊と江戸時代以来の数学とが同時にあった空間

2015-03-27 17:02:05

八甲田山の呟きについてはこのまとめの末尾を参照

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

とはいえ、いまだによくわからない。なぜ明治のこのエリア(宮城県や岩手県)の人たちは、そろばん以上の高度な和算を学び続けたのか。おそらく、今と同じく「和算など何の役に立つのか?」と言われたことも有ったに違いない。それでも彼らは、昭和10年代に至るまで和算の伝統を守り続けていた。

2015-03-27 17:16:50
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

今日呟いた和算書一点だけでも、様々な地域や時代のストーリーを語ることができる。ましてや、今修復してもらっている被災史料は様々な分野にわたっている。小学校の教科書、漢籍、観音像、契約講、仙台の祭礼の一枚刷りやら漁協の資料等々。各々の専門家に語ってもらうと話題は尽きないと思う。

2015-03-27 18:17:20
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

それもこれも、震災の後に史料をレスキューできたからこそ。たった1つの引き出しの奥から出てきた書類の束でも、饒舌なまでに地域の文化や歴史を語ってくれる。その可能性を将来の世代に向けて残したいし、発信もしてもらいたいと思っている。 ひとまず終わり

2015-03-27 18:20:17

八甲田山の雪中行軍についてのつぶやきはこちらから

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

今、次の仕事の必要があって八甲田山の第五連隊遭難の新聞記事を調べているが、この遭難直後から押しかけボラというか、義援金を集めて連隊まで持っていった人がいたのには苦笑。関係者が上を下への大騒ぎをしている時に、担当者が義援金の扱いに困惑している姿が記事の文面からありありと分かる。。。

2015-02-12 17:11:53
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

M35年1月八甲田山遭難の河北新報の第一報「兵士雪に阻まる 二十六日青森発に依れば去二十三日歩兵第五連隊第二大隊二百余名一泊の予定にて八甲田山の麓なる田代温泉に行軍せしにおおゆきのため今に帰営せず救援のため食物を携へ八十余名の兵と筒井村の人民一百余名今朝同地方に向へりとありたり」

2015-02-12 17:32:11
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

明治35年1月23日からの雪中行軍で遭難したことの記事が、28日の新聞記事に掲載されたという時間差は、当時の通信状況その他を考えれば自然なものだろう。

2015-02-12 17:37:15
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

この第五連隊にはかなりの宮城、岩手出身者がいた。遭難以後の様子を知るには河北新報の記事を探るのが良いだろうと考えて索中。兵士の出身地やその人となりなどが、結構詳しく取り上げられている。それにしても「宮城、岩手は暖国だから」遭難したと言う当時の青森県民もいて。。。うーむ

2015-02-12 17:44:08
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

なぜ突然に八甲田山の遭難を調べ出したのかと言えば。実は、南三陸町のお宅からお預かりしている津波を浴びた資料の中から、遭難した上等兵の方の葬儀記録が出てきたので、その裏を取っている。持ち主の方からは研究に利用して良いと仰せ頂いたので、この遭難事故の貴重な記録として調査をしている。

2015-02-12 18:07:01
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

八甲田山の遭難事故でもう一つ。遭難した一人、歩兵中尉水野忠宣(1877~1902)の経歴におや!と思った。 この水野氏は江戸時代、紀州徳川家の付家老で新宮城主としてあった一族で、幕末の当主、忠央は洋学導入に積極的で自らも文化人として『丹鶴叢書』を編纂したことで有名だった。→

2015-02-12 18:43:51
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→ この水野氏が持っていた『丹鶴叢書』の一部を含む旧蔵書は明治期に、紀州徳川家の南葵文庫(現在は東大総合図書館所蔵)に寄贈された。以前、これらを使って電子展示を企画したが、水野氏からの寄贈を示す蔵書票もその中にあった。→ pic.twitter.com/HtgcV5SoM3

2015-02-12 18:48:18
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

→ この蔵書票を見ると、南葵文庫に『丹鶴叢書』などを寄贈したのは水野中尉の父親であった水野忠幹であった。また、寄贈年月日は明治33年9月6日。この2年後に、八甲田山の遭難事故が起きたことになる。まさかこのような悲劇が起きようとは、この時点では誰も思っていなかった筈である。。。

2015-02-12 18:52:05