殺し屋になるのも思想をつくり上げるのも、どちらも自分がほしい物を手にするための手段に過ぎないってようやく肯定的に捉えられる。し、そうなってようやく他の手段の選択肢も開けた気がするようなしないような。
2015-03-31 02:55:07そう考えると、今までの歴史や死すべきだけの存在である人間のあり方、やがては自身のいずれ消え行くような生物個体に依存した物の全ても、その幸せを希求するために費やされたのだとしたらそれは無駄では無いと思える。
2015-03-31 02:30:49僕はバカだから作り物と現実の区別がついてない夢物語ばっかり信じてるようなやつだけど人間に想像できるような物が全て実現可能であるなら、夢物語の中だけの幸せもいずれ実現できるようになるのじゃないかと思った。
2015-03-31 02:28:53因果も条理も超越した物を求めるのは傲慢なのか。偶然性による解決は因果や条理の否定足りうるのか。それともただの逃避に過ぎないのか。
2015-03-31 02:04:03こんなこともわからずに今まで生きてきた位はバカだし、考えついてしばらく経った今までコレを忘れていたくらいにもバカだし、改めて考えなおしたところで答えが出ないくらいにもバカなのだけどそれはどうでもよく
2015-03-31 01:39:25やがて死んでいなくなる人間本体にたいして興味がなかったけど、結局死なずに後に残る物を作り上げていくのは人間であって、つまり人間に対する知識を増やさなければいけないのだろうかしら。
2015-03-31 01:37:01人のあり方を定式化していく社会への変貌に人のあり方はついていけてないのじゃないかな。美しいものを汚濁させていくような行為が満ち満ちていると感じるのは昔を知らないからかな。
2015-03-31 01:21:3090年代は小汚いものが肯定化された時代でもある。古着ブームもそうだし(ファッション20年循環説(というのがよくある)で言うと、70年代のリバイバルなのだけど)、ガングロもそうだろう。00年代にもそれは続いて、ギャル「汚」と言われた時期もある。以後、世の中はずいぶんきれいにされた。
2015-03-31 01:13:32僕は最近、重要なのは「否定性」だという立場に転向した。僕は「肯定」の論者だったけど、それは実は、「否定性の肯定化」という弁証法を当然とした上での肯定を意味していたことを自覚したからだ。この弁証法が厄介払いされる状況では、肯定を言うためにまず否定性を言わねばならない。
2015-03-31 00:28:56現代的なクリーン化は、形式的に正しいふるまいをしていさえすれば、ものごとに個別的に向き合い個として否定性を引き受ける苦痛をシステマティックに回避できる、という総無責任化を「責任の明確化」と呼ぶ欺瞞の体制だ。一律でないグレーゾーンの判断をしていた人間の方が、はるかに倫理的だった。
2015-03-31 00:21:04エビデンスとは、非人称的で「文字通りに反復可能」な存在であり、「差異を含んで反復可能」では不十分である、つまり、証言や解釈など、想像の可塑性に関わるものは棄却される。エビデンシャリズムには、互いの想像を信じ合い、裏切り合う者としての人間を不在にしたいという欲望すら含まれている。
2015-03-31 00:06:53「煙草の煙も香水の霧も、分身として辺りに漂い出し、そして永久に行方不明になるだろうと、そう信じられた。煙草の煙が「誤配」された先で、副流煙による発がん率の上昇を健康保険なりの計算に入れて抗議するようなエビデンシャリズムはまだ優勢ではなかったのである。」—「アンチ・エビデンス」より
2015-03-31 00:02:46有形なエビデンスなしでは人を信用できないというのも、他人のたばこの副流煙に寿命をわずかも影響されてたまるかというのも、否定性を実存に織り込めなくなっていった時代の症状だ。これをコジェーヴ的には「動物化」と言う。否定性を「迷惑」として棄却し、マゾヒズムを駆動できない、それが動物化。
2015-03-30 23:52:34たばこには依存性がある。そのことも含めてたばこ産業を認めているのでなければ、認めていることにならない。抑制的にのみ吸ってよし、という圧力は、たばこ産業の廃止を見越しているのだろうか?「頻繁に依存的に吸う権利」を確保しなければ、たばこ産業を認めていることにならない。
2015-03-30 23:46:00世の中は大きく、形ばかりに「ちゃんとしていなければいけない」という強迫を強めている。この変化は不可逆に思われる。しかし本当に不可逆なのか。後戻りできないのか。もっと「ある程度」に「いいかげん」だった人間理性へ、我々は戻れないのか。これが次の原稿「アンチ・エビデンス」の問い。
2015-03-30 23:29:33