「本格ミステリ」の概念化へ向けての試み2(読者の類別という可能性)

ミステリを「~ミス」で小分けに類別することは現在普通に行われてるが、これはミステリが多様だと言うより、読者の側が多様だということかも知れない。類別が必要なのはトリックやミステリより読者なのだ。 ※5/4分「誰も「平和」に文句は言わない。誰がそれを語っているのか、その意味することをいちいちいち考えず、受け入れてきた。それをいいことに「平和」は安易に使われてきた」に触発されたつぶやきを追加。
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MAQ @junk_land

「「本格ミステリ」は虚辞」をトゥギャりました。 togetter.com/li/807876

2015-04-13 09:35:46
じねん @jinensai

(RT言及)人様の楽しみに水差すのも野暮かなと、基本スルーモード決め込んでるのが現在のスタンス。単純に「本格」の定義し直し中なのと、元々大昔からベストテン嫌いなことの相乗効果ですが…。前者については大分考えはまとまって来てますが、賛同得るにはまだまだ理論構成に甘さを残してるかな。

2015-04-13 12:40:01
じねん @jinensai

類似現象を挙げて相対化するなら「悪」の定義などと同類かな…。倫理的になのか、法律を犯しているからか、その他もろもろが悪魔合体している。言葉単体だけ問題にしてしまうと「言霊」の罠にハマるだろうし…。作者と読者の関係性による補助線をどう有効に指標化できるかが、当面の課題かな。

2015-04-13 12:46:35
じねん @jinensai

少し考えまとめてみるか…。会社帰りに灰色の脳細胞に泡のように浮かんできたことだが、ミステリを「~ミス」で小分けに類別することは現在普通に行われてるが、これはミステリが多様だと言うより、読者の側が多様だということかも知れない。類別が必要なのはトリックやミステリより読者なのだ。(続

2015-04-14 03:02:44
じねん @jinensai

承)思えばこれまで読者はあまりにも自分たちを棚に上げてきたように思う。作品が読者に働きかけていることを微塵も疑わなかったわけだが、果たしてそうか? 逆ではないのか? なぜこんな話を始めたかというと、会社帰りに『大造じいさんとガン』(椋鳩十)の小学生の感想文を思い出したからだ。(続

2015-04-14 03:03:36
じねん @jinensai

承)以前勤めてた印刷会社では年度末は学校文集・生徒会誌でのシーズンで、読書感想文の組版をする機会も多かった。ある年の課題本が『大造じいさんとガン』だったのだが、ある児童は大造じいさん側からの作品評で、またある児童は残雪(ガンの群れのリーダー)側からの評と大いに割れていた。(続

2015-04-14 03:13:27
じねん @jinensai

承)組版編集しながら内容を斜め読みしてたが、同じ作品なのに随分印象が違うものだなと心に残っていた。『最後の授業』の場合はアルザス・ロレーヌの歴史背景の情報を知っているかどうかで作品の印象ががらりと変わる理屈は分かり易かったが『大造じいさんとガン』では背景情報などの追加はない。(続

2015-04-14 03:19:52
じねん @jinensai

承)つまり「全く同じ」文章を読んでも、受ける印象は人によって正反対になることはしばしばあるのだ。原因は簡単で読む人間一人一人のバイアスが外部環境や内的志向によって全部異なるから。そこは前提として踏まえなければならない。「本格」界隈の迷走は読者側の類別を欠いている点にある。(続

2015-04-14 03:27:52
じねん @jinensai

承)自分のバイアスと向き合う姿勢を棚上げにしたまま、全てを作品が引き起こす力に収斂して論じている限り「本格」の定義づけは論者間の徒な損耗を招き続けることになり兼ねない。それを避けるには、読者側の受容の仕方、どんな読み方をしているのか自覚と表明を伴うことは必要かも知れない。(続

2015-04-14 03:34:56
じねん @jinensai

承)対手を黙らせるためだけに引き合いに出されるのではクイーンもいい迷惑であろう。視点をまず変えて見るのだ、試みにでも。それは謎解きにも通底する、ミステリに関わっている作者・読者・書評家・批評家・編集者・出版社、etc...その魅力にとり憑かれた者たちで共有できる手法だと思う。(続

2015-04-14 03:47:09
じねん @jinensai

承)例えば同じ作品を挙げたにしても、甲が打者として投手(作者)の球を打ち返す読みをしているのに対し、乙がビール片手にスタジアムのスタンドから見物する読みをしていたら評価は異なって当然で、作品名で集計することには大いに疑問が残る。甲型か乙型かの表明は伴った方が良いのではないか。(続

2015-04-14 03:57:00
じねん @jinensai

承)各々の読者が自分がどこにカテゴライズされ、あるいは立体的にマッピングされているか自覚することで無用の諍いは相当減るのではないか。ましてや罪のない作品に事寄せて作者や作品を貶める愚も避けられるだろう。誰だって自分が良いと思っているモノをクサされたら嫌な気分にもなる。(続

2015-04-14 04:15:47
じねん @jinensai

承)他人が某作に抱く感情と自分が良いと思う作品に向ける感情の曲線の形は実は酷似していることを知ることが相互理解の前提だ。「本格」を再定義し得るとしたら、その感情曲線の形状すなわち作者と本と読者との関係性が織り成すパターンを読み解くことからだというのが、今現在までの思索更新の状況。

2015-04-14 04:16:17
じねん @jinensai

とりあえず一旦寝よう。

2015-04-14 04:16:39
じねん @jinensai

(RT言及)安易に「本格」使い続けることによる思考停止を認識することがスタートラインだと思う。別の言葉や概念に対して十分冷静に思考できる方々が、「本格」に対して感情的な罵り合いに陥るのは「なぜ」かまで考えると、ミステリが作者と読者の共同創作物という「仮説」の裏打ちになるだろう。

2015-05-04 18:41:06
じねん @jinensai

見事な「一局」を作り上げるのは作者だけでも読者だけでも無理。「神の一手を極める」ためには単~複数の「対手」を必要とする。作品の「出来」は読者の「読む力」が加わったベクトルとして顕れている。その評価に難癖をつけられるから読者は時に烈火の如く怒るのだ。それは自分の否定と同義である。

2015-05-04 18:53:55
じねん @jinensai

自分という「ブラックボックス」を棚に上げ、客観性を隠れ蓑にどこかから借りてきた概念で自分と異なる考え方を排除するより、まず自分と向き合うことだろう。得手不得手は当然ある。自分が簡単に誤謬を犯す者だと認識することで、不得手なことは他人の見識に耳を傾けるという謙虚さにもつながる。

2015-05-04 19:03:54
じねん @jinensai

自分が作品に加えている力の方向と強さを自覚することで、それを引き出してくる作品本来の「魅力」に気づければ、恐らく殺伐とした事態には陥らない。鍵と鍵穴、ウィルスとワクチンのように作品と読み方には相性がある。凸凹している。過剰な客観性はその当たり前なことを見えづらくする。

2015-05-04 19:13:19
じねん @jinensai

「読み方」自体、外部の趨勢や内部の意識変化に容易に左右される。そうした移ろい易く脆いものだけに、日々の更新や変化には敏感でありたいし、一定期間後に再読した際の印象の変化からのキックバックも必要になる。目盛りの変化に鈍感なまま「本格」を振りかざしても筋の悪い「武器」にしかならない。

2015-05-04 19:23:51
じねん @jinensai

安易なタグ付けやレッテル貼りも、移ろい易くもろい「読み方」に絶大な影響を及ぼす。帯の煽り文句などに「誘導」され、結果的に残念な読書になった経験は誰しもあると思う。最後は先入観も選択肢の一つとして自分が実際に読みながら時に瀬踏みし、時に大胆に切り込み「対局」するしかないように思う。

2015-05-04 19:39:04