こよみのぷちおでかけ詰め合わせ2015

「こよみのぷちおでかけ詰め合わせ」に引き続き、東京近辺の寺社詣り・町歩きなどの思い出詰め合わせです。随時更新予定!
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和こよみ*旧暦たん/賀茂こよみ⛩️日本文化史V @yamatokoyomi

今日は神道大教院のご祭礼におじゃましてきましたっ(*・ヮ・)ノ pic.twitter.com/ffmpE9xrJi

2015-04-21 17:04:30
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リンク www.shinto-taikyo.org 神道大教 |
和こよみ*旧暦たん/賀茂こよみ⛩️日本文化史V @yamatokoyomi

麻布の路地裏にある、一見なんの変哲もない小さな神社ですが…明治初期太政官制の神祇官・神祇省と、神仏両教の統括として建てられた大教院・のちの神道事務局の流れを汲む、歴史深い教派神道「神道大教」の総本部なのです! pic.twitter.com/6j7VZWNivW

2015-04-21 17:16:09
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リンク Wikipedia 神祇官 神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ) 「神祇」とは、「神」は天津神である「天神」を、「祇」は国津神である「地祇」を表し、その名の通り祭祀を司る。 古代の律令制での神祇官は、朝廷の祭祀を司る官であり、諸国の官社を総轄した。現存する令集解より復元された養老令の職員令には太政官に先んじて筆頭に記載されるため、太政官よりも上位であり、相並んで独立した一官であった。諸官の最上位とされた日本独自の制度である。四等官は、長官は神祇伯、次官は神祇副(大副・少副)、判官は神祇祐(大祐・少祐)、主典は神祇史(大史・少
リンク Wikipedia 神祇省 神祇省(じんぎしょう)は、明治4年8月8日(1871年9月22日)-明治5年3月14日(1872年4月21日)に神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって設置された。 形式上のみとはいえ、太政官よりも上位とされた神祇官に対して、太政官の1機関に格下げられた神祇省は一見すると地位が低下したようにも見受けられるが、実際には大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるためのものであった。神祇卿は設置されず、神祇大輔に福羽美静が任命さ
リンク Wikipedia 教部省 教部省(きょうぶしょう)は、明治初期の太政官制度のもと、宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織である。 明治5年3月14日(1872年4月21日)に神祇省を改組し、民部省社寺掛を併合する形で設置。神祇官内に設置された宣教使の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを受け、当時最大の宗教勢力であった仏教、特に浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。キリスト教の(半ば黙認という形での)禁制解除、社寺に於ける女人結界の解除など近代宗教政策を実施する一方で、神祇官が為し得なかっ
リンク Wikipedia 大教院 大教院(だいきょういん)は、大教宣布運動の高揚を図るため教部省が1872年に神仏合併を行う教導職の道場として設置した半官半民の中央機関である。 国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするための機関である。教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども教導職に任命された。 国民教化をより具体的に行う為、教導職の全国統括機関である大教院、各府県単位の統括を行なう中教院が設置され、全国に小教院が置かれた。三条の教憲(敬神愛国、天理人道を明らかにする、皇上の奉載
リンク Wikipedia 神道事務局 神道事務局(しんとうじむきょく)は、明治時代の宗教行政で、全国の神道諸派を結集させた団体であり、神官教導職と神道系宗教の両教職者を集めた神道の半公的機関、半ば、神道の公的中央機関である。明治政府は神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成を行った。1884年に神道本局と改編した。 1875年3月に創設。4月、教部省の神仏合同布教廃止とともに、5月に大教院の解散が近づくと、引き継ぎの管轄機関として、大教院が解散させられる前に神道界側の自立を目的として設けられたのが神道事務局である。 信者数など一定の条件を満たし
リンク Wikipedia 神道大教 神道大教(しんとうたいきょう)は、教派神道の一つ。 明治政府が明治5年に神道の総本山とすべく設けた大教院が元であり、神道十三派と呼ばれる各教派神道の母体となった。初代管長は、稲葉正邦である。 祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉那岐命、伊弉那美命、天照大神、天神八百萬神、地祇八百萬神。 昭和15年以前は「神道本局(正式名称は神道)」という教派名であった。その元となった大教院は明治6年に設けられ、神道の総本山として皇道発揚に歴史的な役割を果した。 明治7年には全国でその存立を闡明にしており、中
リンク Wikipedia 教派神道 教派神道(きょうはしんとう)とは神道十三派(しんとうじゅうさんぱ)に代表される神道系新宗教教団のことである。幕末期に起こり、明治時代に教派として公認された14の神道系教団を指す(のちに1団体が離脱し13団体となる)。宗派神道、宗教神道と呼ばれることもある。 神仏合同の大教宣布と教導職を成すため、1868年頃、神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こり、同年、祭政一致の制度を復活する。その宣教機関として大教院が設置されるが、1875年解散。その代わりに神道側は神道事務局を設け、そこに元来ばらばらに存在した民衆信仰
和こよみ*旧暦たん/賀茂こよみ⛩️日本文化史V @yamatokoyomi

ご神符と祝詞集も授かりました! 大祓詞は古式ゆかしく万葉仮名交じりで書かれてます! pic.twitter.com/o8Z7KQ2qsf

2015-04-21 17:57:05
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リンク Wikipedia 大祓詞 大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである。中臣祓詞(なかとみのはらえことば、略して中臣祓)・中臣祭文(なかとみさいもん)ともいう。 元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。 『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ
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お寺の墓碑塚に、気になる名前が…!o(*・_・*)o 陰陽寮暦道宗家賀茂氏の勘解由小路(かでのこうじ)家……じゃなくて、どう考えても藤原氏系の旧華族のほうですよね(*・ヮ・;) pic.twitter.com/wKMi4RVnB3

2015-04-21 18:11:48
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リンク Wikipedia 勘解由小路家 勘解由小路家(かでのこうじけ)は日本の氏族の一つ。今日日本の戸籍に記載される姓では最長のものである。 藤原氏日野流烏丸家の分家で、烏丸光広の子孫。 儒道を家業とし、家禄は130石。1644年(正保元年)烏丸光広の次男資忠によって創立された。家格は名家。 昭和時代の当主は資承、なお、資淳を養子に迎えるさい、資淳を一度武者小路実篤の養子にしてから勘解由小路家に迎え入れた。 明治維新後は華族令施行により資生が子爵に叙せられた。 雲上明鑑に、「始祖は烏丸権中納言豊光六代正二位権大納言光広の末男正三位参議資忠なり」
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藤原姓勘解由小路子爵家のご子孫は現存されてて、一世帯のみ、日本一長い苗字だそうです!ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98…

2015-04-21 18:45:59

湯島聖堂と神田明神2

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さて、神田明神さまのすぐ前、国電御茶ノ水駅から神田川越しに見える丘の上には、孔子さまを祀る湯島聖堂があります。江戸幕府の大学、昌平坂学問所の跡で、中国明朝風の漆黒のお堂があります。 pic.twitter.com/to6m4EBWJT

2014-04-19 18:21:24
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ぷちおでかけ詰め合わせ togetter.com/li/810539 でもご紹介した湯島聖堂に行ってきましたっ(*・ヮ・)ノ ちょっと中国明朝風のお堂! pic.twitter.com/dzd9TYT4Pd

2015-04-25 19:24:22
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リンク www.seido.or.jp 史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会 史跡湯島聖堂、公益財団法人斯文会のホームページ。JR御茶ノ水駅よりすぐにあり、世界最大の孔子銅像、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設した由緒ある聖堂です。
リンク Wikipedia 湯島聖堂 湯島聖堂(ゆしませいどう)は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡。江戸時代の元禄3年(1690年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、後に幕府直轄の学問所となった。JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。 湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間(特に受験シーズン)を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられる。国の史跡に指定されている。 1690年(元禄3
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江戸幕府の儒学大学・昌平坂学問所の跡で、学問の守護・孔子を祀った「文廟」です! 孔子様おひげさわさわしたいなっo(*・_・*)o pic.twitter.com/98ISBbUXCa

2015-04-25 19:30:44
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リンク Wikipedia 昌平坂学問所 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。 もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学
リンク Wikipedia 孔子廟 孔子廟(こうしびょう)は、中国、春秋時代の思想家、儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物)。 中国語では孔子庙(簡体字)/孔子廟(繁体字)(コンツーミャオ、拼音: kǒngzǐ miào・注音: ㄎㄨㄥˇ ㄗˇ ㄇㄧㄠˋ)という。一般的に孔庙(簡体字)/孔廟(繁体字)(コンミャオ、拼音: kǒng miào・注音: ㄎㄨㄥˇ ㄇㄧㄠˋ)と呼ばれる。また関帝廟が武廟と呼ばれるのに対比して文廟とも呼ばれる。 曲阜の大成殿は、20世紀初頭に文廟、聖廟、孔廟と様々に呼ばれたが、現在の中国では孔廟とさ