- sikisaikettou
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……この隠遁ノ術は、自身が生み出したものであった。 黒の国の鋭軍の中でも、弐号ほど完璧に姿を眩ませることができる者はいなかった。 床に落ちる血の色にすら、幻影を被せる。 先ほどこの術が破られた時、対峙する相手は闇の中にいた。 しかし……光の中にこそ、影は生まれるものだ。
2015-05-04 08:40:00刃と化した幻影の『分身』を貫く。 『分身』は見事な演技で、とっさに急所を外すように身を捩り、鮮血までをも流して見せる。 一瞬だ。 一瞬でいい。 敵の意識を、欺くのは。 鴉はその、一瞬に賭けた。
2015-05-04 08:40:02上空で旋回を続けていた四羽の蝙蝠が、先に行った三羽の後を追うように、青の奏者へと襲いかかる。 それは、形在りて力無き幻影たち。 ーースッ…… 一羽が、娘の視野の外で消える。 その代わりというように、床に落ちた黒い油……さきの蛙の残したそれが、一羽の蝙蝠と成り、静かに飛び立つ。
2015-05-04 08:40:04風切る音も無く、弐号の放った漆黒の鍼を、『力有る』実体の蝙蝠が受け、その体内に沈めて隠し持つ。 ハタハタと、娘に突撃してはすり抜けてを繰り返す『力無き』幻影の蝙蝠に交じり……飛び回る。 ……鴉は得物に、鍼を選んだ。 それは……娘の身体を必要以上に傷つけぬため。 苦笑を、零す。
2015-05-04 08:40:11濁流から放たれ地に足を着いた娘は——真っ直ぐな視線を『幻影(それ)』に向けていた。 会話の時から、大気へと潜り込ませていた『姿無き水』との繋がりはとうに断ち切られている。だから青の娘には、それが『本物』なのかどうかの見分けもつかないまま。 ——いずれかと疑う意識すら、無かった。
2015-05-04 09:46:55濁流と衣とはそれを奏でる者の同一が故か共鳴し合う。纏う衣裳は、まるで光を透かせた水そのもののように揺れ——奏者の手にある限り濁る事の無い『青(みず)』は、娘の首の赤を押し流しも、拭い去りもしなかった。 「——《阻んで、楯を成して》」 呼び寄せる。蝙蝠には構わず、手を伸ばす。
2015-05-04 09:47:08——伸ばした手を据えた先で、赤い血が見えた事には、深海色は僅かに歪む。躊躇にも逡巡にもならないそれに、奏でる声も操る手も揺れはしない。 だが、だからこそ。娘は一層、それを『本物』だと思い違える。何度も己の身体を突き抜ける六匹の蝙蝠のような、触れられぬものだとは、思わなかった。
2015-05-04 09:47:36濁流を手繰り寄せる娘は、たった一匹が宿す鍼など、知らない。 迫る蝙蝠が先の大蛇と同じであれば、たとえ氷の楯を喚ぼうが同じ事だとは解っている。単体では害のない、ただすり抜けるだめの物、娘はそう『見た』。 ——故に選んだのは、『黒の奏者』が己に到達するを、防ぎ、迎え撃つ事を。
2015-05-04 09:49:22眼に見える『黒』の方角を起点と定める。水を氷に変えて、硬く堅い楯に変える——それを、己の周囲に、球として張り巡らせる為に『想う』。 蝙蝠の舞う頭上は、無意識でも後回しに。 ——青の娘は、『戦士』ではない。 だから微かな得物の気配になど、気付ける余地も、なかった。
2015-05-04 09:49:59青の娘の呼び戻した濁流は強固な楯を形成し、瞬く間に奏者を覆う氷の球と成る。 その最後の隙間が閉じようとする瞬間に、スルリ、『鍼』を持った蝙蝠が、滑り込みーー ーーぷつ 右耳の下より、頭蓋に添いて、指四本。 寸分違わぬ正確さで、定めた狙い通りの箇所へとあてがい……突き立てる。
2015-05-04 19:58:11ーー直後、想像を絶するような激しい痛みが、彼女の全身を襲うだろう。 『力有る』蝙蝠は、青の娘の首に巻き付くように羽を広げ、さながら漆黒の首枷のように凝固する。
2015-05-04 19:58:13……これは、黒の国の拷問鍼術の一つであった。 頚椎の脊髄に添い撫でるように通された鍼によって、想像を絶する激しい痛みが全身を襲い、まるで火で炙られた蜘蛛のようにもがき苦しむ様から『炙り蜘蛛』と名付けられた、悪魔の技。 神経へ直接障るこの痛みは、奏者の集中を著しく阻害するだろう。
2015-05-04 19:58:14——理解、ではなかった。 最初の感覚はあっても、その後のものに全てが全てが吹き飛んだ。 「ッ————ァァアアアアアアアアアァァアアアッッ!!!!」 絶叫。 塗り潰される。 思考も想いも意識も全て。 喉頸に絡み付いた蝙蝠を払い除ける事もできないまま、氷の殻の中で青の娘が崩れ落ちた。
2015-05-04 21:42:36地面に這い蹲った悲鳴が溢れる。青の娘には、自分がそうとも解らない。 たとえ無意識でも形を保ち続ける事が出来るはずの衣が半ば形を失って水に戻ろうとする。 ——痛い。熱い。どちらなのかも判らない。 ——赤い。白い。どちらなのかも判らない。 ひたすらに、全てが鍼一本のそれに支配されて。
2015-05-04 21:42:37(——いやだ) ぱきんと音を立てて氷が砕ける。 (——いやだ、いたい、いやだ) 思考が勝手に染まる。 (——いやだ、いたい、いたい、いやだ、いやだ……ッ!!) 『拒絶』する『感情(おもい)』が脳裏に激しく炸裂する。弾けて溢れて——『形』に『成る』。
2015-05-04 21:42:38「——《 ッッ!!!!》」 その悲鳴が詠唱になった。 奏でる音さえあれば『水』は応える。罅割れた氷の檻が割れ形が変わる。全ての『水』が、喚起される。 (痛い。痛い。嫌だ。早く終わらせなければ。早く。——早く!!) 空中の水が全て凝固する。氷の礫が結界に満ちる。
2015-05-04 21:42:39——狙いなど無い。それは『暴走』に等しく。 ——青の奏術に於いては、あまりに稚拙で、あまりに強引で。 ——そしてあまりに、暴力的に過ぎた。 殺到、雨。速度のあり過ぎる氷の粒が降り注げば、石畳にも亀裂すら生むだろう。『水』は娘を避けたとしても——『黒の奏者』には、わからないまま。
2015-05-04 21:42:40哀れな蜘蛛の絶叫が、氷の殻に反響する。 「……悪く、思うな」 マイクには拾われないであろう、静やかな囁きを零す。 あの技を受けて、意識を保てる者など存在し得ない。 パキンと乾いた音を立てて、堅牢な楯がその形を崩し始めれば、鴉は勝利を確信し、隠遁の術を解きその姿を観客へ晒す。
2015-05-04 23:27:22それは、急激に下がり始めた結界内の空気にあてられた寒気か。 ーー否。 黒の国屈指の暗殺兵として、極限まで磨かれ研ぎ澄まされた六つの感覚器官の全てが、煩いほどに『警鐘』を打ち鳴らす。
2015-05-04 23:27:28ーー馬鹿な……!! ニグラタ最強の『鋭ノ弌号(あにうえ)』ですら、この技を受けて『奏でる』ことなど不可能であった! それを……いや、違う……! これは奏術ではない! こんなものが、奏術であるはずがなーーー
2015-05-04 23:27:30……鴉が、その漆黒を纏う身を、意識を、吹き飛ばされると同時に。 まるで荒れ狂う海の神のような、その娘の首筋にしがみついていた影の蝙蝠は、奏者を失いドロリと形を崩せば……奔流に飲まれ、散る。
2015-05-04 23:27:32降り注ぐ『氷』達は、降るよりも叩き付け、まるで磁石が引き付けられるかのように闘技場の地面を穿ち、柔らかい地面を耕すかのように荒らして回り。 ——時間にしては一秒あるかないかの轟音。 奏者の支えを失った『力在る黒』が溶ければ、鍼だけを残して娘の首元に黒い墨で新たな色が重ねられる。
2015-05-05 00:15:54