大倶利伽羅くんの小さな訪い
- shositu_mitubot
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@tos (大倶利伽羅) 信長のもとにあったこと、信長から秀吉にわたったこと、秀吉から伊達にわたったこと(伊達側に記録はあるが)、あたりは確実な史料は見つけられていないとのことだ。 伊達から水戸徳川についても、嫁入りの話がある別の文献もあるしな。
2015-05-17 16:17:01@tos (大倶利伽羅) ちなみに、『武庫刀纂』で頼房ではなく光圀と書かれている点については、光圀の方が有名なため、江戸時代、自然と光圀がそうしたことになったのだろうとのことだ。たしかに常設展示も9代目斉昭と2代目光圀のものが多かった。
2015-05-17 16:18:18@tos (大倶利伽羅) 水戸徳川家にわたった後の話だ。明治維新の頃、尊皇の家である水戸徳川家は上屋敷をいち早く朝廷に返上したと言われる。そのため、下屋敷である小梅邸が、維新後、本邸となっていた。光忠はここにいた。 (トークだけでなく常設の解説も織り交ぜている)
2015-05-17 16:20:49@tos (大倶利伽羅) 関東大震災。小梅御殿は様式の建物で、こちらは大きな被害を受けた。武器庫は焼け残ったが、中に一酸化炭素が充満した。ふつう3ヶ月ほどそのままにしておくが、中に宝があるからとおさまってすぐ開けたため、バックドラフトが起こり、焼けた。その管理人は亡くなったそうだ
2015-05-17 16:23:38@tos (大倶利伽羅) 蔵の中での位置が分かっていたこと、長さなどが記録されていたことから、黒く焼け刃紋が消えていても、燭台切光忠と特定できたとのことだ。蔵の刀の美術的価値は失われたが、歴史的価値を認め、WWIIなどでも鋳潰すことは拒否したそうだ。
2015-05-17 16:25:39@tos (大倶利伽羅) 関東大震災後はすぐに水戸に移され、今に至るということらしい。 他に細かなことといえば、光忠が無銘刀だということくらいか。知ってるだろうが。 ……燭台切光忠についてはこれくらいか。質問があれば分かる限り答える。分からないことはHPからミュージアムに訊け。
2015-05-17 16:27:31@tos (大倶利伽羅) 常設展示では『武庫刀纂』の燭台切光忠のページが見られるが、それ以外も興味深かった。光忠の実家はいいところだったらしい。あいつの頭がいいのも納得できる。木のポストカードなど土産も買った。光忠の印はいい石だった。6000円で予算オーバーだったのが残念だがな。
2015-05-17 16:30:04倶利「帰った」 光忠「おかえり。……? 走ったり泣いたり頭使ったりコミュ力発揮したような顔してるけど大丈夫かい?」 倶利「どんな顔だ」 光忠「どこ行ってきたの?」 倶利「……あんたの実家に。平成の時代のあんたに会いに行った」 光忠「…………それは、……伊達家で君と過ごした僕だね」
2015-05-17 19:06:45倶利「あんたはあんただ。2105年に打たれたレプリカだろうと。……平成のあんたは大切にされていた」 光忠「……うん」 倶利「話はできなかった」 光忠「うん」 倶利「……泣くな。この世界線のあんたは1923年に……少なくとも付喪神としては消失した。俺はこの世界線でも構わない」
2015-05-17 19:09:54光忠「うん」 倶利「……土産だ」 光忠「! ありがとう」 倶利「あんたの料理が食べたい」 光忠「君の方が上手いのにね。何がいい?」 倶利「なんでも」
2015-05-17 19:12:20僕が打刀か太刀かというお話については……大倶利伽羅くんもその点についてはうかがったらしいんだけど、今日解説をしてくださった方はそのあたりのことはお詳しくないみたいだったよ。自分もそうした見分け方の存在を知ったばかりで、とのことでね。そういうわけだからご報告しなかったよ。(こそっ)
2015-05-17 22:16:40@shositu_mitubot そうした見分け方、というのは展示の向きだね。大倶利伽羅くんが「なぜ燭台切光忠と児手柏は同じ向きで並べたときに反りの向きが違うのか」みたいな訊き方をしたところから始まったお話だから。この点はあまり掘り下げては訊けなかったからこれくらいかな。
2015-05-17 22:24:52