村井聖夜氏が亡くなられたお祖父様を偲んで

村井聖夜氏が2010/12/24に亡くなられたお祖父様を偲んでつぶやいたまとめ。 素晴らしいお祖父様だったようですね。 謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
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(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

ちなみに、一族での世襲を嫌い、親族を幹部などには入れなかったため、後に大手電線メーカーの子会社として再編され、今は村井家とは関わりの無いところで、会社そのものは存続しています。

2010-12-24 23:08:15
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

祖父は仕事に出る時、パリっとした三つボタンの三つ揃えスーツに身を固め、アタマにはソフト帽を必ず被っていました。昭和の戦後すぐは、皆そうした格好で出勤していたようですが、半世紀、最後までそのスタイルを崩しませんでした。

2010-12-24 23:09:48
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

1980年代後半、ちょうどそんな時代のハーフコートや細身のネクタイが流行っていた頃、私の格好を見て祖父が「またそんな服装が今流行ってるのか?」と言って、もう着なくなってしまいこんであったコートとネクタイをゾロゾロ出してきました。

2010-12-24 23:11:39
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

その時…と前置きをしますがw、ちょうど流行が一周?二周?して、祖父が若い頃着ていたような服がまた流行っていたんですね。私はその年代物になったハーフコートとネクタイをいくつか譲り受け、それを着て大学に通っていましたw

2010-12-24 23:12:42
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

子供たち(私の父とその兄弟)には怖いお父さんだったようですが、私たち孫にはとても優しい祖父でした。今思えば、考え方も柔軟だったし、やることひとつひとつが面白いことばかりでした。

2010-12-24 23:14:27
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

その性格が如実に出るのは几帳面さ。めちゃめちゃ理路整然と整えるのが好きだったようでした。全ての置き場所は決まっていて、クスリ一つ飲むにしても、専用のケースと皿を廃品を利用して作り、ルールを整えていました。

2010-12-24 23:16:18
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

家の中もいじりまくり。たとえば竹垣の脇に雨樋があると、竹の中になじむよう竹のようなカモフラージュを施す…風呂場の水道パイプもタイルや石の壁と同じ色に塗る…家中あちこちカモフラージュ塗装されていきますw

2010-12-24 23:17:40
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

トイレにはスリッパを脱ぐ場所が足の形にペンキで描いてみたり、置物はすべて釘で固定されていたり…

2010-12-24 23:18:49
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

祖父の書斎に地球儀があったのですが、土台が机に釘付けされていて、南極側を観るためには人のほうが下から覗き込まないと見えない、そんな状態w

2010-12-24 23:19:28
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

しかしその几帳面さが思わぬところで役立ちます…それは、阪神淡路大震災…。

2010-12-24 23:20:03
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

祖父の居た芦屋市は、もっとも災害のひどかった神戸にも近く、実際私も被災後3日目、新幹線が新大阪までなんとか行けるようになってから援助に向かったのですが、祖父の家も大きな損害を受けていました。

2010-12-24 23:21:06
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

早い段階から、連絡で祖父母も同居していた叔父の一家も無事だということは聞かされていましたが、行ってみると土地の真ん中に亀裂が入り、家の一部土壁などは完全にはがれ落ちた状態…それぞれが寝ていた部屋も、間一髪のところで体にあたることがなかったという奇跡。

2010-12-24 23:22:27
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

それでも、家は倒壊はしていないまでも、土台が歪んでいるので修復は不可能な状況…大正モダンな素敵な屋敷だったのに、諦めなければならない状況でした。

2010-12-24 23:23:19
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

それでも、祖父があらゆる調度品を釘付けにしていたリビングは、まるで地震なんか無かったかのように、普通の状態でした。増築した部分だったので、建物もそのまま。地球儀も人形も、机の上にそのまま立っています。

2010-12-24 23:24:12
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

他の部屋は使えなかったけど、その部屋だけは無傷だったため、寒い冬の毎日でしたが、すきま風もなく、数日をそこで過ごすことができたわけです。大画面のテレビですら、固定されていたのですから…

2010-12-24 23:25:19
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

当時関西では大きな地震はまぁ来ないだろう、というのが一般的な声でした。しかし祖父は用心深かった。いつくるかわからないそうした災害に備えて、家中を固定して回っていたのです。

2010-12-24 23:26:03
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

それだけではありませんでした。「災害になったら金がいる。しかし札の金は燃えてしまう」と、海苔の缶に砂をしきつめ、その中に大量の硬化を保管して床下に埋めていました。

2010-12-24 23:27:17
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

まだ携帯電話はあまり一般の人までには行き渡っていなかった頃。安否を知らせる方法はかろうじてつながる公衆電話しかありませんでした。しかしカードは使えない。でも、大量の10円玉100円玉があったため、いち早く安否の連絡をすうことができたというわけです。

2010-12-24 23:28:34
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

私もいろんな救援物資を背負って祖父母宅を訪ねたけれど、祖父の準備の周到さに圧倒され、それらの一部はご近所で困ってる人たちへと分けることができるほどでした。

2010-12-24 23:31:30
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

被災後は元あった屋敷はマンションに建て替えをし、祖父母は奈良へと移り住みました。そこからは穏やかに余生を暮らしてきたわけですが、思い返すといろんな場面で、先見と強運に恵まれた人だったんだなと思います。とりあえず、おじいちゃんの言うことなら間違いない、という感じでした。

2010-12-24 23:39:01
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

祖母を先に失ってからが、突然のように老けこんでしまいました。家事身の回りのことはすべて祖母にやらせ、全く自分ではやらない、それが明治男。でも、祖母には常に優しさをもって接していたし、祖母も祖父のために一生懸命でした。だからその片輪が外れてしまったとたん崩れてしまったのです。

2010-12-24 23:41:35
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

だんだん物忘れもひどくなるし、5年くらい前からはもう私の事を誰だかちゃんとわかっているかどうか、怪しい感じではありました。それでもウチノシトやムスメを連れて行くと、うまい具合に話を合わせて聴いてる感じw

2010-12-24 23:43:54
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

私の顔を観るたびに「よかったなぁ、ほんまよかったなぁ(就職や結婚、子供についてなどひっくるめて)」とくりかえし言っていた祖父。あまり多くは語らなかったけど、いろいろ心配してくれていたのかなぁと。

2010-12-24 23:46:09
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

目が届く孫の代まで、一応落ち着いて独立するところまで見届けてから、本当にもう少しボケはじめて誰が誰やらわからなくなっていた様子。安心してこれまでの張り詰めていた緊張を緩めたのかなと、そんな気がしました。

2010-12-24 23:47:51
(〃ゞ)っ[ムライ] @mu_station

晩年はあまりに寂しがるので、4兄弟が代わる代わる家を訪ね、私の両親も毎月のように高速をとばして夫婦で奈良まで通うことが数年続きました。

2010-12-24 23:50:47